Part.1:Mk.1
MGBはまずトゥアラー・ボディのみの単一車型/単一仕様で市場に送り出された。MGBは18年後の生産休止まで全鋳鉄製1800ccOHV4気筒Bタイプ・エンジンを使い続けたが、
'62年の新登場時は3ベアリング・クランクシャフト仕様だった。
馬力的にはMGA1600Mk.2と同じ95馬力だったものの200ccの排気量アップの分だけ最高出力発生回転数が低下し(5500rpm→5400rpm)、最大トルクも若干の向上を見た(13.4kgm15.2kgm)。
この1800cc仕様への改良は隣接したシリンダー間のウォーター・ジャケットを共有する「サイアミーズ・シリンダー」としてボアアップする事で成された。結果として1800cc型Bタイプ・エンジンは実用上それ以上の排気量アップは困難であり、現在見られる2000ccへのボアアップは耐久性の低下というリスクを負う事になる。
エンジンに取り付けられる発電機もこの時は直流ダイナモであり、アースの極性も+だった。組み合わされる変速機は1速がシンクロメッシュのない前進4段型で、
'63年になってレイコック・ド・ノーマンヴィル製の電磁式オーヴァ・ドライヴがオプション設定されるようになった。
'64年10月になってこのエンジンは5ベアリングの18GB型に改良されると共にそれまで輸出仕様のみ標準装備だったオイルクーラーが全車に装着されるようになった。
'65年10月になってMGBにハッチバック・クーペの<MGB/GT>がラインナップに加えられる。 MGAにもクローズド・クーペの<MGA
Fixed Head Coupe>があったがMGB/GTはテールゲートを備えていた事が最大の特徴だった。
このクローズド・クーペ版MGBの発案者はBMC・MG部門の長だった「ミスターMG」ジョン・ソーンリィ本人だった。アストン・マーティンDB2/4を好んでいたソーンリィの目指したイメージは当然のように「プアマンズ・アストン」だった。
しかしMGBトゥアラーに屋根を被せるというこのプロジェクト<EX227>は思いの他厄介だった。デタッチャブル・ハードトップはすでにオプション設定されていたものの、ソーンリィのイメージはファストバックだったのである ところがMG開発陣が様々なトライをしてみたものの、どうもしっくりしたデザインが出来てこない。思い余った彼等はこの難事業をMGマグネットMk3、ADO16などでBMCと協力関係にあったイタリアン・カロッツェリアの雄「ピニンファリーナ」の手に委ねる事にした。
イタリアから戻ってきたMGBを見たMG開発陣は「あっ」と驚いた。彼等を悩ませていたのはトゥアラーの低いフロント・ウィンドゥ上端からルーフラインを描くとどうしてもロング・ルーフデザインとなり、軽快感の演出が困難だったのである。それをピニンファリーナはフロント・ウィンドゥを上に延長し、そこからルーフ・ラインを描く事で屋根の長さを短く納めてスポーティなシルエットを生み出したのである。
見てみれば「その手があったか!」というアイディアなのだが、その既成概念をあっさり引っ繰り返したところにピニンファリーナの真骨頂があったと言えよう。
実はMGB/GT以前にもう1台のクローズド・クーペが存在していた。しかしそれはファクトリィ・メイドのカタログ・モデルではなかった。
ベルギーでMGディーラーを営んでいたジャッキー・クーンという男がMGBトゥアラーをベースにフェラーリ275GTBを彷彿させるファストバック・クーペボディを架装した<MGB Berlinette>である。
機械部分はMGBトゥアラーと全く同一だが、ボディ・パネルで共通するのはわずかにドアだけであり、ルーフおよびボディ後半部はFRP製だった。MGB/GTとは異なり純2シーターで、ラゲージ・スペースはトランクスルー化されていた。
このMGBベルリネッタは '64年1月のブリュッセル・ショウで発表され、生産計画は月産12〜15台、価格はベースであるMGBが834ポンドであったのに大して5割ほど高価な1285ポンドと言われた。
しかしこの2年後、BMC自身からMGB/GTが998ポンドという価格と共に発表されると、もはや高価な改造車に勝ち目はなかった。結局MGBベルリネッタはわずか58台のみの生産で姿を消す事になったのである。
現存しているMGBベルリネッタは全世界でわずかに12台ほどに過ぎないと言われている。
(続く)
by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)
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