part.6:ウレタンバンパーモデル(後期型)

 アメリカ市場に適合させるために重いウレタンバンパーの装着を余儀なくされたMGBだったが、その運動性能の低下は目を覆うばかりだった。
 そこで実施されたのが '76年8月の、MGBとしては最後のマイナーチェンジである
 その中身は過去の改良と比較しても、最大規模のものだった。
  1. フロント・スタビライザーの径アップ/リア・スタビライザー装着
  2. ラジエター位置変更/電動冷却ファン装着
  3. オイルクーラー廃止
  4. ステアリング・ギア比変更(ロック・トゥ・ロック3.0→3.5)
  5. ODスイッチ位置変更(ワイパーレバー組み込み→シフトノブ頂部)
  6. 計器盤デザイン変更
  7. エンジン・ルーム内インナーパネル形状変更
 主なものだけを列挙しても以上のとおりである。そのためウレタンバンパー・モデルとは言うものの、 '76年8月前後で前期型/後期型に区別した方が適切であると言える。
 後期型に導入された前進したラジエターや電動ファンは、実はフロント・サスペンション・クロスメンバーなどと同じく、元々はMGB/GT V8用の物を4気筒版に流用したものである。同時にエンジン・ルームのボディ形状もMGB/GT V8と同一の物とされた。最もそれが顕著なのはホイールハウス部分で、V8用のエキゾースト・マニーフォールドを避けた形状になっているのが分かる。
 しかしMGBがウレタンバンパー後期型に変更になると入れ違いにMGB/GT V8は4年間の生涯を終えた。本来アメリカ市場にとってより適した仕様であったはずのMGB/GT V8は、結局アメリカ大陸に上陸することはなかった。
 実際には7台が対米仕様として生産されたものの、これらすべてはヨーロッパ大陸に渡った。つまり巷間言われているように「MGB/GT V8に左ハンドル仕様はなかった」というのは誤りである。
 MGB/GT V8の総生産台数はブラックメッシュグリル・モデル:1856台/ウレタンバンパー・モデル(前期型):735台の2591台である。
 「究極のMGB」とさえ言われたハイパフォーマンスを誇ったMGB/GTV8は、そのハイコストとオイルショックによって商業的には失敗作で終わったのである。

 1975年、業績不振が続くBLMC(ブリティッシュ・レイランド・モーター・コーポレーション)は時の労働党政府によって国営化され、新たに<BL(ブリティッシュ・レイランド)>として再建を図ることになった。その再建計画はBLMC国営化に関する調査委員会委員長である経済学者サー・ドン・ライダーの名を取って「ライダー・レポート」と呼ばれた。
 同じこの年、1台のスポーツカーが発売された。MG/トライアンフ社内コンペティションの結果生まれた<トライアンフTR7>である。TR7はMGB/トライアンフTR6両方の後継車として開発された。しかし結果を見る限り、この社内コンペに勝者はいなかった。

 MG側の提案である<ADO21>はフィアットX1/9に触発されて提案されたミッドシップ・クーペだった。その設計はアビンドンのチームが当たったが、デザインはロングブリッジのデザイナーであるハリス・マンによって行われた。
 エンジンは1750ccのEシリーズを想定していたが、2.2リットル6気筒エンジンも搭載可能とするために、ADO21の車幅は1730mmもあった。また全長は4164mmだったが、ウェッジ・ノーズとするために横から見るとフロント・オーヴァ・ハングが異様なほど長かった。
 写真などでは確認できないものの、このADO21が<MGD>と呼ばれるはずだったという説が有力である。
 結局この社内コンペは '70年11月に、一応トライアンフの勝利という形で決着した。ADO21のミッドシップ・レイアウトは生産設備への大幅な投資が必要だったのに対し、トライアンフ案の<ビュレット>はFR故にその必要がなかったのである。
 しかしそのスタイルはADO21の影響を強く受けたウェッジ・シェイプとされた。FRのスポーツカーにMRのスタイルを被せる事自体にすでに無理があったと言えるが、ともあれ5年後の '75年に生まれたのがTR7だった。
 かくして北米市場においてオープン・ボディのMGB/クローズド・クーペのTR7の2本建てとなったBLのアッパークラス・スポーツカーラインナップだったが、その結果はBLの思惑とは異なるものだった。
 肝心の北米市場において、新型のTR7は登場以来13年にもなるMGBの販売台数をついに越えることはなかったのである。そのためもあってか、BMC以来のお家芸であるバッジ・エンジニアリングによる「オクタゴン付TR7」は計画のみで終わった。
 また日本においては '78年からそれまでの日英自動車などに加えて新たに設立された日本レイランドの手によってMGBの輸入が再開されたが、これも当初計画にはなかったものである。
 日本側から本社に対して要求する車種の中にMGBを入れたのは、会議の最後になって西端 日出男氏の提案によるものである。
 しかしこれに対するBL側の反応は「クレイジー」というものであったという。「新型のTR7がありながら、何故?」という事だったのだが、それに対する日本側の返答は「日本人はクレイジーだからMGBを買うのだ」というものだったそうである。

 「ライダー・レポート」の失敗は、ほどなくして明らかになった。国営化以前の '74年に32.7%あったBLMCの国内シェアは、 '77年にはなんと24.3%にまで低下したのである。
 新たな再建策を建てざるをえない状況に追い込まれた英国政府は、 '78年2月BLを再編成することにした。この時から「BL」の二文字は「ブリティッシュ・レイランド」の略ではなく、「BLカーズ」という一続きの社名となったのである。 そして「生産合理化の断行」という名のリストラクチュアリングの波がアビンドンにも迫りつつあった。

 1979年9月3日からの1週間、MGがアビンドンに移り住んで50周年を祝う盛大な祭りが催された。パレード、花火、サッカー大会・・・
 楽しい1週間が過ぎ、アビンドン工場に出勤したMGの人々を待っていたのは「1980年10月をもってMGBの生産を終了し、アビンドン工場を閉鎖する」という発表だった。
 この発表がなされた「1979年9月10日」は、現在MGの歴史の中で「暗黒の月曜
日(ブラック・マンデー)」という名で知られている。
 「MG消滅」のニュースは衝撃と共に世界中を走った。MGワールドにおいて重要な位置付けにある2つの巨大クラブ「MGカークラブ」「MGオーナーズクラブ」合同による政府庁舎へのデモなどMGを救う動きも行われたものの、すべて決定を覆すには至らなかった。
 またアストン・マーティンがアビンドン工場を購入し、MGBにエンジン交換/内外装のリフレッシュなどの改良を施した上で彼らの高価な「サルーン」を補完するという案も交渉の俎上に登ったものの、直後にアストン・マーティン自体の屋台骨が揺らぎ不調に終わった。
 こうした様々な努力が行われている一方、MGそしてアビンドン工場に残された時間は刻々となくなって行った。 '79年12月7日、まずMGBよりも1年早く生まれたミジェットが、 '71年7月に姿を消した双子の姉であるスプライトの後を追うように生産を終了した。
  '80年1月、英国のスポーツカーとして前人未到の50万台目のMGBがアビンドンのラインから離れた。しかしもはやその命も風前の灯であるMGBにとって、これは一つの皮肉でしかなかった。

 そしてついにその日がやって来た。
 1980年10月22日水曜日。最終限定仕様1000台のリミテッド・モデルの本当の最終として、トゥアラー/GT各1台がジョン・ソーンリィ、シド・エネヴァなどMGBに縁のある人々が見取る中でラインを離れた。
 これをもってMGBは50年に渡ってMGの故郷であったアビンドン工場と共に、52万3836台(MGC、MGB/GT V8含む)の生産を記録してその18年間の生涯を全うした。
 トゥアラーの総生産台数38万6961台、GTの総生産台数12万5282台(共にMGC、MGB/GT V8除く)。
 特にトゥアラーの生産台数は「オープン2シータースポーツカー最多量産記録」であり、この記録はその後17年間破られる事がなかったMGBの輝かしい勲章の一つである。
 これはいかにMGBが世界から愛されたスポーツカーであったか、という事実の証明であり、MGBは総じて幸せな生涯を送ったと言う事ができる。

 ただ一つ、後継者をついに得る事ができず、50年を越える名門ブランドの最期の1台
となってしまった事を除いて。

 そのはずだったのだが・・・


by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)

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