part.7:空白の12年

 MGBが1980年10月22日に生産を終了し、その翌年には本来MGBの後継車だったはずのTR7も後を追い、BLカーズにスポーツカーの姿はなくなった。
 しかしMGもトライアンフも、とりあえずブランド自体が消滅した訳ではなかった。トライアンフは '79年に業務提携したホンダのバラード・セダンを「アクレイム」の名で販売し、MGは '82年にオースチン・メトロのスポーティ・バージョンとしてシリーズに加えられ、その名を細々と永らえていた。
  '85年のフランクフルト・モーターショウに1台の未来的なクーペがBLカーズから参考出品された。銀色に塗装されたそのボディに、赤いオクタゴンが輝やくそのスポーツカーの名は「MG EX−E」と言った。
 EX−Eはポルシェ959(グルッペB)に触発されて世界中で生まれたフルタイム4WDスポーツの1台であり、世界ラリー選手権に参戦していたMGメトロ6R4をベースとした3リッター級ミッドシップ・スポーツカーのプロポーザルだった。
 ライトウェイト・スポーツを表看板としていたMGとしてはやや毛色の異なるモデルではあったが、オクタゴン輝くスポーツカーを熱望していた人々にとって贅沢を言っていられる状況ではなかった。
 しかしその彼らの希望は虚しいままに終わった。その後MGスポーツの話題が雑誌を飾る事もなく、それどころかBLカーズは '83年には「オースチン・ローヴァ・グループ」へ、さらにその後 '89年にはオースチンの名も落ちてただの「ローヴァ・グループ」になると共に販売する車両もすべて「ローヴァ」ブランドに統一された。
 こうして時間と共にアルヴィス、ライレー、ウーズレィ等々名だたる名前を失い続けた英国自動車産業界はモーリス/オースチンという歴史ある2大ブランドさえ失ったのであ
る。

 この間もMGBは「最期の(そして最量販の)MGスポーツ」としてスポーツカー・ファンの中に生き続けていた。そうした中で世界の自動車ファンを、そして自動車企業を大きく揺るがす動きが水面下で進んでいたのである。
 英国にはBritish Motor Industry Heritage Trust(BMIHT)という組織がある。BMC、レイランド・グループを始め現在のローヴァ・グループにまで至る英国民族系自動車企業の歴史を保存するための組織である。
 ここはゲイドンにある記念車両、試作車両、競技車両などが展示されているミュージアムの運営/管理/資料の保管のみならず、古い車両用の部品の再生産なども手掛けている。またこのBMIHTの認定を受けたショップも同様に旧車用パーツの再生産/販売をすることが認められている。
 そのBMIHTが新たな計画を発表した。新たにBMH(British Motor Heritage)という会社を設立し、アビンドン工場などにあった治具を用い、当時のBLMCの各工場にいたワーカーの手によってMGBのモノコック・ボディを再生産し、販売しようというのである。
 元々量産セダンのパーツを数多く流用しているMGBのメカニカル・パーツは交換部品を探すのにも融通が効きやすく、それだけ生き残る率は高かった。すでにボディ・パネルを始めとしたほとんどの部品の再生産は行われており、残すところはモノコック・シェルのみと言ってもいいほどだったのである。
 これで「エンジン/足回りは無事なのだが、ボディの痛みが・・・」という車両からこのヘリテイジ・ボディに部品を移し代える事で、MGBの再生が可能になったのだった。同時に現役時代の英国においては販売台数では上だったGTボディから、現在では人気が逆転したトゥアラー・ボディへのコンバージョンも可能になった。
 時、あたかも1988年4月13日水曜日の事だった。

 同じ年の10月、日本の軽井沢でMGカークラブ・ジャパンセンター主催のMGデイが例年通り開催された。そこで行われたコンクール・ドゥ・エレガンス<MGB部門>において、自らのレストア記録を携えて優勝した男性はコメントを求められてこう答えた。
 「来年、ウチも出しますから期待してて下さい」
 その優勝者の名は、立花啓穀氏と言った。
 時、あたかもBMIHTによるMGBヘリテイジ・ボディの生産開始から丁度半年後の1988年10月1日土曜日の事だった。

 それから約4ヶ月後の1989年2月8日水曜日、アメリカで開催されたシカゴ・モーターショウにおいてホンダNS−Xプロトタイプ、Z32型フェアレディZなどと共に1台のスポーツカーが発表された。
 発売前からオーナーズ・クラブが生まれ、発売後は注文から納車まで8カ月待ちというスーパー・ヒットを記録し、全世界に衝撃と共にライトウェイト・オープンスポーツカーのブームを巻き起こしたマツダMX−5<ミアータ>、日本名<ユーノス・ロードスター>である。
 ユーノス・ロードスターは日本国内では7月3日月曜日に発表された後、マツダが新たに設立した販売チャンネルであるユーノス店の看板車種として9月1日金曜日から国内発売が開始された。
マツダはこのスポーツカーを産み出すにあたり、ロータス・エラン/トライアンフ・スピットファイア/オースチン・ヒーレィ・スプライトなどのブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツを購入し、研究を重ねたと言われる。
 実はユーノス・ロードスターの誕生に係わるもう1台のブリティッシュ・スポーツがあった。もちろんMGBである。
 MGBコンクール・ドゥ・エレガンス・ウィナーの立花氏こそ、マツダ・シャーシィ設計部の部長であり、ユーノス・ロードスターの足回りのセッティングを定めた責任者だと言える。後にマツダのアンテナ・ショップであるM2の責任者にも就任した立花氏のMGBとユーノス・ロードスターの試作車が並走する写真が残されている。
 車両としての成り立ちも実用車のエンジン/サスペンションを適切なレイアウトのシャーシィに配置し、絶対的な動力性能こそハイパワー・セダンの後塵を拝するものの、それよりも入門用スポーツカーとしてコントローラブルな操縦性に重きを置いて産まれたところなどは、まさに歴代MGのコンセプトそのものであり、車体寸法も幅を除けば車重まで含めてMGBと極めて近いと言える。
 ユーノス・ロードスターは英国自動車産業界の凋落と共に姿を消した「ブリティッシュ・ライトウェイト・スポーツ」のスピリチュアルな後継車として日本が胸を張って世界に送り出したスポーツカーであり、その成功はライトウェイト・スポーツというジャンルが未だに人々を引きつける魅力を持っていることを満天下に証明した。
 この事実を突きつけられた世界の自動車企業が受けたショックは大きかった。それがこの市場に対するポルシェ/ホンダ/フィアット/ダイムラー・ベンツ/BMWなど名だたるメーカー達の挑戦を促した。そしてそれはライトウェイト・スポーツの産まれ故郷とも言えるイギリスにおいても例外ではなかった いや、むしろ世界で一番悔しい思いをしていたのがイギリスの人々だっただろう。
 その悔しさが眠れるマークを呼び起こしたのである。


by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)

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