part.8:復活の日
1991年暮れあたりから、英国自動車雑誌誌上などで「ローヴァ・グループがMGスポーツを復活させる」という噂が散見されるようになった。
しかしその中身は全く新しいミッドシップのミジェット級スポーツカーという説と、MGBのモノコック・シェルを改良したV8スポーツという説の両方がまことしやかに混在していた。
その「謎のMGスポーツカー」の正体が判明したのは '92年3月13日金曜日の事である。この日ローヴァ・グループはMGBヘリテイジ・ボディを基にして内外装をリフレッシュすると共にV8エンジンを搭載したスポーツカーにオクタゴンの紋章を与え、
'92年暮れから限定販売すると公表したのである。
このニュースはすぐさま世界を駆け巡った。日本においては朝日新聞夕刊の社会面にMGBの写真付で掲載されるという、1メーカーの新型車の発表としては異例の扱いを与えられて報じられた。
この事は日本において「MG」の二文字がなおスポーツカーの名として人々の中に生き続けていることの証しとも言える出来事だったが、それは後により明白な形で証明される事になる。
MGスポーツの復活は公表されたものの、実際の発売まではまだ7カ月もの長い時間を待たねばならなかった。
その間にもリア・ホイールアーチにオーヴァフェンダーを付け、異様に太いタイヤを履いてボンネットをバルジで膨らませたウレタンバンパーMGBのテスト走行シーンがスクープされたりもしたが、その実態は定かではなかった。 またローヴァ・グループがこの改良版MGBとは別にミッドシップ・スポーツを開発しているという噂も根強いものがあったが、こちらの方はさらに「霧の中」といった状態だった。
そうした中で時は流れ、季節も冬を迎えようとしていた '92年10月、バーミンガム・モーターショウにおいて遂に12年ぶりにオクタゴン輝くスポーツカーが人々の前に姿を現した。
その名は「MG RV8」。その「R」の名は一説には「Reborn(復活)」の略であるとも言われた。
RV8は単にユーノス・ロードスターのヒットにあやかってMGBを改良して生まれただけではなかった。ローヴァ・グループはRV8に続き、噂のミッドシップ・スポーツの発売をも予告したのである。RV8はスポーツカー・ブランドとしての「MG」が復活する、その狼煙としての役割も担っていたのだった。
RV8はBMHが生産しているMGBトゥアラー・ヘリテイジボディをベースに各部に補強を加え、ボディ・アウターパネルや内装をグレード・アップしたモデルである。
205サイズという太いタイヤをカバーする前後フェンダーは大きく膨らむと共に強い抑揚が与えられ、ベージュの本革シートとエルム・ウッドが貼られた計器盤など、そこにライトウェイト・スポーツだったMGBの面影を見いだすことは難しい。
しかしドアやトランク・リッドはまぎれもなくMGBの物で、そのプロポーションも全長に比べて全幅が狭く、いかにも2世代以上前の車のものであることは隠しようもなかった。
エンジンはMGB/GT V8にも用いられたローヴァV8の発展改良型である3.9リットルEFI190馬力仕様で、オクタゴンが浮き彫りされたサージタンクをカバーするために、ボンネットにはバルジが設けられていた。
このエンジンは当初ローヴァV8エンジンのチューンとしては最も高度なノウハウを持つTVRに依頼する予定だったようだが、これは自社の商品と競合するのを嫌ったTVRから断られたと言われる。
サスペンションは形式こそMGBと同じもののリアにはトルクロッドが加えられると共にトーセンLSDが与えられ、さすがにレバー式ショックアブソーバーはコニのテレスコピック・タイプに交換された。これもMGB用としてすでに市販されていた「コニ・ハンドリングキット」を基にしていると言われる MGB/GT V8の20年遅れのトゥアラー仕様とも、MGBトゥアラーV8コンバージョンモデルのカタログ仕様とも言えるRV8は右ハンドル仕様のみとされ、当初1500台と言われていた限定台数は結局2000台と公表された。
日本においても復活MGスポーツを歓迎する声は大きかったが、問題はその価格だった。バーミンガム・ショウで公表されたRV8の価格は26000ポンド。当時の円−ポンドレートから計算すると、約600万円だったのである バーミンガム・ショウから5カ月後の
'93年3月30日火曜日、RV8の生産1号車がアビンドンならぬローヴァ・グループ・カウリィ工場のラインを離れた。その車両に与えられたシリアル・ナンバーは「0251」だった。
実はこの番号は旧アビンドン工場の電話番号であり、TF以前においてはこの番号から
生産が開始されるのがMGの伝統だったのである(現在でも本国MGカークラブ本部事務局の電話番号はアビンドン0251である)。
ところがRV8の発売どころではない大激震をローヴァ・グループを(そしてMGスポーツを待ちわびる人々を)襲ったのは、その年の暮れの事だった。 以前から囁かれていた「ローヴァ・グループ売却」という噂が現実のものとなったのである。
国営企業だったローヴァ・グループはまず '84年にジャギュアがグループから独立して民営企業に戻り(その後フォードに買収されたのは周知のとうりである)、続く
'80年代末にはローヴァ・グループ自体が英国航空宇宙産業であるBAeに買収されて民営化されていた。しかし
'93年になってBAeはローヴァ株売却を計画、業務提携先であるホンダに対して交渉を開始した。 ホンダ側は株式保有率の増加は承諾したものの全面的なローヴァ・グループの買収には難色を示した。だがこの交渉がまだ妥結しないうちに、BAeは突如保有する全ローヴァ株をBMWに対して売却することを公表したのである。
BAe側のホンダ交渉担当者ですら知らなかったと言われるこの電撃的な買収劇にホンダ側は激怒、保有する全ローヴァ株の放出と業務提携の解消を通告した。BMWは「ローヴァ・グループ」と言うよりも、自らが持っていないクロスカウントリィ車「レンジ・ローヴァ」に魅力を感じており、乗用車であるローヴァはホンダの提携下で生産/販売すれば良いと考えていたフシが見受けられる。
ホンダの態度に慌てたBMW/BAe/ローヴァ側は交渉の末、ホンダ所有の全ローヴァ株の引き取りという線で話をまとめることとなった。
この一連のドタバタ劇で、MG復活に暗雲が垂れ込めたかに見えた。新しいオーナーであるBMWが、ユーノス・ロードスターに刺激されてオープン・スポーツカーを開発中であるという事はすでに周知の事実だったからである。
本国MGカークラブの日本支部であり30年以上の歴史を誇る「MGカークラブ・ジャパンセンター」に対してローヴァ・ジャパンから協力要請があったのは
'93年初夏の事である。
日本仕様として必須項目であるエアコンのテストなどのために密かに日本に持ち込まれていたRV8の試作車を前にしたクラブ・メンバー達は、ローヴァ・ジャパンからの価格の問い掛けに対してこう答えたという。
「400万円以下」
バブル末期の事とは言え、ホンダNSXが850万円、性能的にRV8と大きく変わらないユーノス・ロードスターがわずか170万円で購入できるこの国で、「600万円のMGB」はあまりにも法外な価格だった。
そうして時は過ぎ、RV8の日本デビューの時が訪れた。舞台は世界最大の自動車ショウである「第30回東京モーターショウ」幕張メッセ会場である。 ウッド貼りのステージ上に展示されたルマン・グリーンのRV8の前を訪れた人々は、そのスペックシートに記された価格を見て目を見張った。そこにあったのは「399万円」という数字だったのである!
折からの円高の影響でポンド・レートは下がっていたとは言え、本国仕様にはないエアコンを装着してのこの価格は、ダンピングと指弾されても言い訳のできない価格だった。
ローヴァ・ジャパンでは東京モーターショウ出品と同時にRV8の予約受付を開始した。しかし500台と言われた日本割当て台数が埋まるのに要した日数はわずかに1週間足らず。最終的にウェイティング・リストに載った人の数は1400人に及んだのである。
膨大なバック・オーダーを前にローヴァ・ジャパンは慌てて本社に対して生産台数の増加を依頼した。本社からの返答は「総生産台数を増やすことはできないが、日本割当て台数を500台から1500台に増やす」というものだった。
かくしてRV8は同じローヴァ・グループの「THE」ミニと同様に生まれ故郷よりも遠く離れた日本の方が台数の多い車種となったのである。
日本仕様RV8はエアコン装着のために本国仕様ではフロント・バンパーに収められているドライビング・ランプがメッシュのグリルとなり、またフロント・ホイールアーチにはタイヤをボディ内に収めるためのリップが加えられている。さらにその後ろにはこれまたミニ同様本国仕様にはない「ROVER」のエンブレムが装着されている。
RV8の成功はローヴァ・グループ首脳陣にMGブランドの価値を再認識させることになった。それがRV8に続く「復活MGスポーツ」の真打ち、プロジェクト<PR3>の開発に大きな自信となったであろう事は想像に難くない。
噂ばかりが先行し、<MGD>とも<新ミジェット>とも言われたその車が現実の物として人々の目に初めて触れたのは'95年3月、スイス。ジュネーヴ・モーターショウのローヴァ・グループのブースに、赤/緑2台のオープン・スポーツカーが並べられていた
フロント・グリルにこそウレタンバンパーMGBの面影を残すものの、それ以外のすべての点(伝統あるオクタゴンの紋章でさえ)でMGBよりも遙かに進化した新世代のMGスポーツ<MGF>だった。
いや、一つだけMGFにはMGB、そして歴代MGスポーツと共通する点が残されていた。ボディの下に流れるMGスピリッツである。MGFは20世紀も残すところ5年となった環境の中で、Mタイプ・ミジェット以来70年以上の歴史を持つMGスポーツの誇りとオクタゴン・エンブレムを受け継ぐ正当継承者と言うべきライトウェイト・オープン・スポーツカーだった。
これが本家の伝統を引き継いだローヴァ・グループがユーノス・ロードスターに対して送った返答だった。MGBの時はフェアレディZ/マツダRX7に対して防戦を迫られたMGが、今度は攻撃に回る番だった。
かくしてMGBは真の後継者を得て、誕生から33年(実に1/3世紀である!)たってようやく兄MGAの後を追って「ヒストリック・スポーツ」の名簿に連なることができたのである。
by MG PATIO <えむじい亭>マスターCorkey.O
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)
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