The Fastest Production MG from Abingdon

(Cream' Crackers 第49号、第50号より転載)

all text by Corkey Oka

 MGB/GT V8は、約52万台が生産されたMGBシリーズの中ではわ
ずか0.5%を占めるにすぎない。
 しかしその生涯はシリーズの中でも、極めて複雑な生い立ちで生まれ、不遇
な環境の下に育ち、失意のまま去り、やがて誰しも予想しなかった形で復活を
遂げてシリーズ全体の幕引き役を果たすと同時にブランド再生の宣言役を果た
すことになるという、実に波瀾万丈なものだった。
 それはMGBが持っている技術的ポテンシャルの一つの証明であり、またM
GBというクルマの性格の一面をつきつめたものとも言える。
この「アビンドン製最速市販MG」が誕生するためには、4つの鍵が必要
だった。

Part1.第1の鍵<MGC>
 その最初のものは言うまでもなく母体のMGBそのものと、その高性能発展
形として誕生したMGCである。

 BMCではMGAの時代から、3種のスポーツカーがラインナップされてい
た。最も小型軽量かつ廉価で、絶対的な動力性能ではなく敏捷な運動性能の方
に主眼を置いたライトウェイト・スポーツカー「オースティン・ヒーレィ・ス
プライト」。同じ入門用スポーツカーではあるもののボディサイズや排気量に
幾ばくかの余裕を持たせ、トゥアラー的性格も兼ね備えた「MGA」。そして
オーヴァ100mph(約160q/h)の動力性能を持ったミドル級スポーツ
カー「ビッグ・ヒーレィ」である。
 ビッグ・ヒーレィが誕生したのはBMCの成立直前の1952年10月、
2600cc4気筒エンジンを搭載した「ヒーレィ100」としてのことである。
 その後Cタイプ6気筒エンジンへの換装、3リッター化、2+2化、コン
バーチブル・ボディ化などの様々な改良を与えつつも、その一方で後継車の手
当てを始めておかなければならない頃合いも迫っていた。
 それがスタートしたのは1957年、後のMGBであるEX214(ADO
23)の開発開始とほぼ同時期の事である。
 EX210と名付けられた独立したモデルとしてのスタディの後、ほどなく
してこの2つのプロジェクトは事実上統合されることとなった。と言うよりも
EX214を基に2種類のエンジンの搭載を検討するという内容である。この
計画はADO51/52と名付けられ、ミジェット/スプライトと同じくMG
/オースティン・ヒーレィ双方のブランドで販売することを意図していた。
 その最初の試みがADO23に搭載を検討していた狭角V4エンジンを、そ
の6気筒仕様に載せかえるというプランだった。これは1960年11月16
日に図面で提出された。
 ところがこの年の終わりにはこのV型エンジン計画自体が開発中止の憂き目
に遭い、ADO23のエンジン・ベイは主を探して放浪の旅に出ることにな
る。
 ADO23におけるこの顛末は別項の「THE HISTORY OF MGB」に詳細を記し
てあるが、ある意味ではADO51/52の方が話は楽だったかもしれない。
なぜならBMCのエンジン・ラインナップの中で選択するとすれば、ADO2
3に比べてごく限られた種類のエンジンしか選択肢がなかったからである。
 基本的にそれはビッグ・ヒーレィで用いられているCタイプ・エンジンの事
でしかないのだが、問題はこの基本設計が第2次大戦前にまで溯るエンジンが
重く大きいという点にあった。ヒーレィ親子からは4気筒版Cタイプ・エンジ
ンをショート・ストローク化する事でレヴ・リミットを引き上げる2.5リッ
トル仕様の提案があった。しかしこの案は4気筒版Cタイプ・エンジンの細々
とした生産が終了する上に、搭載にあたってエンジン自体とADO23のボ
ディへも多くの改造が必要ということで不採用となった。

 もう一つ検討されたのがロングブリッジのスタッフの手によって開発されな
がら自分の家では使われず、オーストラリアに里子に出されていた6気筒版B
タイプ・エンジン<ブルー・ストリーク>である。
 これは2400ccと排気量は小さいものの、当時ビッグ・ヒーレィに用い
られていた6気筒版Cタイプ・エンジンよりも約48kg軽かった。ブルー・
ストリーク搭載MGBは1965年2月9日に図面が引かれ、1基のエンジン
が本国に送り返され、改造されたブロンズ色のMGB/GT<BMO340B
>のエンジン・ベイに搭載された。
 オーストラリアでは80psしか発揮していなかったこのエンジンは、アビン
ドンでチューンを受けることで115psにまでスープアップされた。そして
MGBに搭載されると巡航速度127mph(約203q/h)の「公式認定」を
得たのである。
 その認定書とは、このクルマでオクスフォードの公道にテストランに出かけ
たMG主任シャーシィ・デザイナーのロイ・ブロックルハーストが持って返っ
てきた、上記の数値が記載された警察発行の書類の事である。まあそれに要し
た費用が如何ほどだったのかは定かではないのであるが。
 ともあれこの<ブルー・ストリーク>は技術的には満足の行くエンジンで
あったが、経営的にはそうは行かなかった。何しろ本国のどこにも生産設備の
ないエンジンである。ADO51/52のためだけに新たに設備を設けるか、
さもなければオーストラリアから輸入する以外に入手する術がないのである。
かくしてこの案も破棄され、残されたのは結局重く大きいCタイプ6気筒エン
ジンを何とかするという策だけだったのである。

 Cタイプ・エンジンをADO23、つまり後のMGBのボディ・シェルに納
める最初の試みは1961年1月16日には図面が引かれていたのだが、重量
と寸法の問題から他のエンジンの採用検討が行われていたのである。直接MG
Cに繋がる最初のプロトタイプが作られたのは1965年のことである。
 おりしも新たにオースチン/ウーズレィ/ヴァンデン・プラの3つのブラン
ドが与えられる予定のハイエンド・サルーンADO61のために、Cタイプ・
エンジンが改良されることになった。アレック・イシゴニスの監修の下に行わ
れたその改良計画の主たるポイントは、メイン・ベアリングの7個所化と重量
の低減であり、性能自体の向上は重視されていなかった。
 Cタイプ・エンジンは20kg軽量化されたとは言えBタイプに比べてなお
95kg重く、長く、高かった。そのためエンジン・ベイのインナー・パネル
は広範囲の再設計が必要となった。ラジエーターは前進し、サスペンションは
トーションバー・スプリングに変えられ、ボンネットにはエンジン自体とSU
キャブレターの両方をクリアするために2段になった大きなバルジが付けられ
た。
 Bタイプよりも遥かに重いCタイプの搭載によって荷重配分を悪化させない
ために、バルクヘッドやヒーター/ブレーキ・サーボの形状や配置変更を行っ
てまでエンジンを後退させて搭載しようとはしたのだが、これまた大きなボー
グ&ワーナーのオートマチック・トランスミッション・ユニットをADO23
/ADO52の双方に用いるという計画がネックとなった。
 これによってボディに対するミッションの位置が固定されることになり、A
DO52は相対的にMGBよりもエンジン重心が車両前方に位置することに
なってしまったのである。この問題は結局最後までアキレス腱として残ること
になる。
 具体的にMGB/MGC/オースティン・ヒーレィ3000MkVを比較す
ると、次のようになる。

    車名(年式)        前    後      合計
MGCトゥアラー(1968)   627Kg(55.7%) 498Kg(44.3%)  1125Kg
MGBトゥアラーMkT(1965)508Kg(52.6%)458Kg(47.4%)  966Kg
MGB/GT MkT(1966)  552Kg(51.2%) 527Kg(48.8%) 1079Kg
オースティン・ヒーレィ3000MkV(1964) 615Kg(52.0%) 568Kg(48.0%) 1183Kg

 GTボディはトゥアラーに比べてルーフがある分だけ後輪荷重が高く、前後
荷重配分は向上する。残念ながらMGC/GTの前後荷重配分データは筆者の
手元にはないものの、MGBにおける相違から推測すると前:後=671Kg:
557kg=54.6%:45.4%程度と予想される。トゥアラーより改善
されるとは言え、これでもやはりフロント・ヘビーという傾向は否めない。
しかしそれと引き換えに手に入れたパワー・アップは大きなものである。B
タイプ・エンジンの95psに対し、Cタイプが発生する出力は145ps。
実に1.5倍を越える。トルクについても同様で、Bタイプ15.2kgmに対
してCタイプ23.4kgmと、これまた1.5倍を越えている。
 ただし車重の方もMGBの940kgに対して1116kg(共にトゥア
ラー)へ176kgも重くなっているために、パワー・トゥ・ウェイトレシオは
MGBの9.9kg/psから7.7kg/psへと3割弱の改善に留まっている。

 さてこれ以外にもADO52は幾つかの点でMGBと異なる点がある。まず
パワー・アップに伴う駆動系の変更である。
 特にトランスミッションの変更はMGBのMk.U化に合わせて行われ、基
本的に同じ物ではあるもののギア比は1〜3速で高めにセッティングされてい
る。しかしディファレンシャル・ギアはMGBの3.909から3.071へ
と大幅に高められ(3.31というものもオプションで用意された)、Cタイ
プ・エンジンの発揮する動力性能と合わせてMGCの高い巡航性能の元となっ
ている。
 因みにこのトランスミッション/ディファレンシャルが、後のMGB/GT
V8にも用いられる事になる。
 またタイヤ/ホイールはMGBよりも1インチ大きな15インチ・サイズに
アップされており、ボンネット・バルジと並ぶMGCのもう一つの識別点とも
なっている。

 <ADO52>はMGCの名を与えられ、1967年10月MGB MkU
のアナウンスと同時に発表された。しかし姉妹車であるはずの<ADO51>
オースティン・ヒーレィ3000MkWはついに市場に姿を現すことはなかっ
た。
 MGCにオースティン・ヒーレィのグリルを付け、3000MkVで特徴的
だった2トーンに塗られた試作車は完成していたものの、ヒーレィ親子からは
このクルマに自分たちの名を冠することに対する承諾が得られなかったのであ
る。彼等がイメージしていた4気筒版Cタイプを用いたスポーツカーに比べる
と、MGCはそのノーズヘビーさによるハンドリングの悪化が容認できないも
のであったのだろう。
 また当初<MGC>の名は、実はADO16<MG1100サルーン>に与
えられる予定だった。これを裏付ける証拠として、各ディーラーへのADO1
6市販予告用パンフレットの表紙にははっきりと<MGC1100>の文字が
ある。
 もしもこれが実現していたら、ADO52に与えられた名称は何だったのか
という興味はあるが、結局これは「MGCの名は、MGA/MGBの流れから
スポーツカーにこそ相応しい」という意見によって日の目を見ずに終わること
となる。

 しかしそうして生まれたMGCも、その生涯は短いものだった。発表からわ
ずか2年後の1969年10月にMGBが2度目のマイナー・チェンジを受け
るのと期を同じくして、MGCはBMCのラインナップから去ったのである。
 '66年〜'69年4年間の生産台数はトゥアラー/GT合わせて9002
台。比率はほぼ半々であった。
 この生産期間/台数からも明らかなように、MGCは決して成功した商品と
は言いがたかった。この理由について「Mr.MG」ジョン・ソーンリィは2
つの理由を挙げている。
 一つがMGC最大の問題点とされた「ノーズ・ヘビー問題」である。これは
MGの開発スタッフの責任ではなく、ブルーストリーク・エンジンの採用を見
送ったBMC首脳と約束の軽量化を果たさなかったモーリスのエンジン部門が
負わされるべき責だろう。
 もう一つが「ハイパワー版MGB」という市場の想像(希望)に対して実態
は「ハイスピード・トゥアラー」だったという、市場イメージと実態のギャッ
プである。

 MGCは現在ではむしろプロダクション・モデルよりもBMCコンペティ
ション部門が作り上げた最期のワークスカーであるMGC/GTSの存在の方
が有名かも知れない。
 エンジンからボディまでアルミニウムを多用することで軽量化を果たしたG
TSは、その巨大に膨れ上がったフェンダーを持った独特のスタイルに惚れ込
む人も少なくない。
 わずか2台のみ製作されたこのワークスカーはセブリング24時間(車名の
「S」の由来とされる)を始めとして幾つかのレースに参加するが、目立った
戦績を残すこともなくBLMCの設立とともに姿を消したのだった。

 こうしてMGCはわずかな足跡を残したのみで歴史の中に埋もれていった。
 しかしこれがすなわち「スーパーMGB」コンセプトの消滅を意味するもの
ではなかったし、後に復活するための多くの要素を後に残すこととなった。だ
がその実現のためには、まだ揃わなければならない3つの要素があったのであ
る。
19692/19699 GFH01771 Corkey.O MGB V8 STORY part.2
( 1) 00/10/13 23:13

The fastest production MG from ABINGDON

Part2.第2の鍵<ローヴァV8>
アビンドンでMGBが生まれ育っていた頃、ロンドン郊外のソリハルと大西
洋を挟んだデトロイトを結んで一つの動きが起きていた。
 1950年代、VWタイプ1(いわゆる「ビートル」)を始めとする欧州製
小型車の怒涛の攻勢に見舞われたアメリカ大陸のビッグ3は、それらに対する
迎撃策を練っていた。
 GMビュイック部門が企画したのが、アメリカ人にとってパワーとゆとりの
象徴となりつつあったV8エンジンを小型車に投入することで欧州車にはマネ
のできないクルマを作り上げるというプランだった。
このために開発された戦略エンジンが「215ファイアボール・エンジン」
だった。
 排気量215cu.in(3531cc)とアメリカとしては小型に属する
排気量のこのエンジンはバンク角90°のOHVで、それ自体は目新しい訳で
はなかった。このエンジン最大の眼目はシリンダーブロック/シリンダーヘッ
ド共に軽合金のアルミニウムを用いて重量を144kgに抑えるという点にあっ
た。これに8.8:1の圧縮比とロチェスター・2バレルキャブレターが標準
で組み合わされることによってこのエンジンは155ps/30.4kgmを発
揮した。
 これがオプションの4バレル・キャブと10.25の圧縮比と組み合わされ
ると、このエンジンの性能は185ps/31.7kgmにまで向上した。
 このエンジンはオールズモービル部門でもシリンダーヘッド・スタッドボル
ト等に独自に手を入れた形で用いられ、1960年秋に「ビュイック・スペ
シャル」「オールズモービルF85」および「ポンティアック・テンペスト
(オプション・エンジン)」として世に出た。

 エンジン自体としては満足の行く性能を発揮したのだが、肝心のアルミニウ
ム素材の採用に絡んで問題が発生した。
 このエンジンはGMのディーラーでしか手に入らない、アルミニウムを侵さ
ない専用の不凍液を必要としていた。その入手の困難さと一般的な不凍液より
も割高と言う点が「Do it yourself」の国では苦情の対象となっ
たのである。さらに小型車は元々利幅が小さいところへ持って来て、アルミを
多用したこのエンジンは製造コストが割高だった。
 これらの問題からGMとしてはよりオーソドックスな設計で廉価なエンジン
を新たに開発して、そちらに切り替えようと計画した。
 かくして1963年に後継のV6エンジン(当然V8よりも部品点数が少な
く、安い)に後を譲り、ファイアボール・エンジンはカタログから去った。生
産されたユニット数は、わずか3年の間ではあるが75万基(月産2万基以
上!)ほどになるという。
 このまま終わればただの「生まれが早すぎた、不運なエンジン」としてヒス
トリィ・ブックの中だけに名残を留めて終わっただろう。
 しかしここでこのエンジンに、海の向こうから最大の転機が訪れるのであ
る。

 ローヴァはイギリスにおいて「上流の下」あたりを主たる顧客としたブラン
ドだった。伝統的にスポーツカーを製造/販売したことがなく、ローヴァと
モータースポーツや先端技術というのは似合わないイメージもあるが、195
0〜'60年代には積極的にル・マン24時間耐久レースにも参加すると言う
メーカーだった。
 当時彼ら(だけではなかったが)がご執心だったのが、自動車用小型ガス
タービン・エンジン、つまりはジェット・エンジンだった。
 軽量小型大出浴[ヴァが自分達の開発したガスタービン・エンジンのテストの場に選ん

のがル・マン24時間耐久レースだったのである。
 ガスタービン・エンジンはレシプロ・エンジンに対してスロットル・レスポ
ンスが悪いという欠点を持っていた。ロータスが選んだインディ500もロー
ヴァが選んだル・マンも、スロットルの開閉頻度が比較的少ないところから試
験の舞台として選ばれたのである。
 因みにローヴァの送り込んだガスタービン・レーシングカーの戦績だが、1
965年のル・マンで参加英国車中最高位の10位(因みに11位はワークス
MGB)で完走している。
 結局この計画はスロットル・レスポンスの問題と高温排気の問題がどのメー
カーも解決できず、ジェットエンジン搭載自動車が実際に売りに出されること
はなかった(クライスラーが少量を路上でモニターした事はあるが)。
 しかし当時のローヴァがそんな未来を予測できる訳はなかった。このガス
タービン・エンジンの量産化を目論む彼等は、エンジン単体を他の企業に販売
することで生産台数を増加させコスト・ダウンを図るべく、社長ウィリアム・
マーチン・ハースト自らがエンジン・ユニットの買い手を求めて1963年に
大西洋を渡ることになったのである。

 彼が向かったのはパワー・ボートの製造会社マーキュリー・マリーン社だっ
た。確かにレジャーなどに用いられるボートはそう頻繁なスロットルの開閉を
行うことはなく、ガスタービン・エンジンの売り込み先としては有望だった。
もっとも先方はランド・ローヴァ用のディーゼル・エンジンの方にご執心だっ
たらしいのだが。
 ともあれマーキュリー社の開発部を訪れたハーストは、ガレージの片隅に置
かれていたV型エンジンに目を止めた。それこそがビュイック・ファイアボー
ル・エンジンであり、それもまたパワー・ボートの動力源としての可能性検討
のために置かれていたのだった。
 GMではこのエンジンの生産を終了しようとしているという情報も合わせて
聞き込んだハーストは、返す刀でデトロイトに向かった。このエンジンを譲り
渡してもらう交渉のためである。
 GMとしても生産を終了したエンジンの設備は廃却する以外にはなく、それ
が売れるというのだから正に「渡りに船」である。交渉は順調に進み、設備移
転とそれに伴う技術移転のために定年間近のビュイック部門エンジン開発部主
任ジョウ・ターレィがソリハルに一時駐在することも契約内容に含まれるほど
のアフター・フォローもOKしたのだから、いかにGMが喜んでいたか見えよ
うと言うものである。
 デトロイトからソリハルに居を移すに当たっては、やはりやらなければなら
ないことは少なくはなかった。アルミニウムを鋳造する方法をイギリスのイン
フラに適合させたほか、キャブレターをアメリカ製ロチェスターから英国製の
代表SUツインに換装するなど、ジョウ・ターレィの助言の下、大小様々な改
良が施された。
 かくしてローヴァは1965年1月に、正式にGMからこのエンジンの生産
権を買い取った。

 ローヴァはわざわざ大西洋の向こうから設備ごとエンジンを買って、何をす
るつもりだったのだろうか?
 生まれ故郷でこそ3500ccはコンパクトカー扱いだが、アメリカ大陸以
外では立派に大排気量車で通用する。高級車カテゴリィに属する彼らローヴァ
が当時販売していたアッパークラス車種はすでに登場から日が経っており、商
品のリフレッシュという意味からも新しいエンジンを必要としていたのであ
る。
 こうして1967年9月に生まれたのがローヴァ3リッターMkVサルーン
の改良型である3500(P5B。「B」は「Buick」の頭文字)であ
る。くしくもこれはMGCがデビューしたのと同じアールズコート・ショウで
のことだった。
 続いて半年後の1968年4月にはそれまで2000cc直列4気筒SOH
Cエンジンを搭載していた1クラス下のP6サルーン(例のガスタービン・エ
ンジンの搭載を予定されていたとも言われる)の上級グレードにも用いられ
た。因みにこの時に採用された「V8」のエンブレム・デザインはその後この
エンジンを搭載した様々な車種に用いられ、いまだに使われ続けている。
 そして1970年にはそれまで世界にはまったく存在していなかった「高級
オフローダー」として登場したレインジ・ローヴァのパワー・プラントとして
使われ、排気量アップやEFI化などを施されつつエンブレムと共に今日まで
使われ続けている。
 この軽量小型V8エンジンは育ての親であるローヴァ−/BLMC系の車種
だけではなく、モーガン、TVRを始め幾多のキットカーメーカーなどの小規
模スペシャリストも好んで多用している。
 特にモーガンは1966年にローヴァ・グループとの間で吸収合併の話し合
いが持たれた際に、その副産物としてローヴァV8エンhン工場も、すぐ
さま本来の自動車組立工場としての業務を再開し、戦前モデルに若干の改良を
加えただけのスポーツ・モデルTCミジェットの生産を始めた。
 第2次世界大戦前後では、あらゆるものが大きく変化した。中でも連合軍勝
利の中核を成し、唯一本土での戦火を免れた大国であるアメリカ合衆国はその
存在価値を大きく拡大させた。敗北し東西に分割されたドイツを含む、戦場と
なった国々の復興の鍵となるのはこの新たな超大国とそこで生活する膨大な数
の中産階級者達だった。
 戦後の本格的な大量消費時代を迎え、自動車もまた本格的な普及に向かうの
は必然だった。これにより自動車産業全体の規模も拡大したが、逆の見方をす
れば大きな規模を持っていなければ大量生産によるコストダウンも計れず、販
売競争にも生き残れない時代を迎えたのである。
 かくしてより大きな企業規模に成長するために、世界各国で自動車企業の合
従連衡の動きが起こったのである。

 英国においてもこの動きは同様だった。車種ブランドの数は相変わらず多
かったが、その実態は幾つかのグループに集約されつつあった。乗用車に限る
と以下のようになる。

ナッフィールド・グループ :モーリス/MG/ライレー/ウーズレィ
オースティン・モーターカンパニー:オースティン/オースティン・ヒーレィ/ヴァンデン・プラ
レイランド・グループ    :スタンダード/トライアンフ
ジャギュア          :ジャギュア/ディムラー
ロールズ・ロイス       :ロールズ・ロイス/ベントレィ
アストン・マーティン    :アストン・マーティン/ラゴンダ
ローヴァ           :ローヴァ/アルヴィス

 これ以外にもロータスを筆頭にして戦後雨後のタケノコのごとく誕生した
バックヤード・ビルダーやサンビーム・シムカ・ヒルマン/ヴォクゾールのよ
うにビッグ3の資本に飲み込まれたメーカー、そしてアームストロング・シド
レィの様に静かに消えて行ったメーカーもあった。
しかしこれら残ったグループも安穏とはしていられなかった。
まず1952年に、英国bPのナッフィールド・グループとbQのオースティ
ンが合併し「ブリティッシュ・モーター・コーポレーション(BMC)」が誕
生した。BMC時代は長く続いたが、1966年にはジャギュアがBMCと合
併してブリティッシュ・モーター・ホールディングズ(BMH)となった。次
に1967年ca[ター・コーポレーション(BLMC)が設立さ
れたのである。

 これは本来「英国自動車産業界の総力結集」というべき動きだったのだが、
いざ実際にやってみるとその内実は喜劇的なドタバタ騒ぎだった。
なにしろつい昨日までし烈な販売競争を繰り広げてきた仲である。当然それぞ
れが持ち寄ったのはライバル関係にあった車種ばかりであり、エンジン一つ
とっても同じクラスのものが何種類も存在する状況だったのである。
 それはローヴァV8に関しても同様だった。
1967年9月にローヴァV8エンジンが公式デビューを果たした時、旧レイ
ランド・グループでは3リッター級スペシャリティ・コンバーティブルの開発
が行われていた。現在の日本に喩えればトヨタ・ソアラにも相当するこの車種
はスポーツ/スポーティカーを担当するトライアンフ・ブランドで、その心臓
部は元々トライアンフがサーブのために設計したエンジンに端を発する45度
傾斜搭載SOHC4気筒のドロマイト・エンジンを2つ組み合わせたような
90°V8エンジンだった。
 この車は結局1970年にミケロッティ・デザインの衣をまとって「トライ
アンフ・スタッグ(雄鹿)」の名でデビューした。そのエンジンはトライアン
フ設計の専用品のままだった。
 元々量販が望めない大排気量クラスで似たようなマルチ・シリンダーエンジ
ンを複数持つことがどれだけ無駄であるかはあえて言うまでもない。元々BL
MCとして結集した各社には3リッター前後にローヴァV8/トライアンフ直
6/ジャギュア直6/BMC−Cタイプの4つものエンジンが存在していた。
そこへ持ってきてさらにトライアンフV8が、しかもBLMC結成から3年も
たってから加わったのである。
 本来ならば最も設計が新しいトライアンフV8に集約するのが合併効果とい
うものだろう。しかしこのエンジンはやがてアルミニウム製シリンダ・ヘッド
と鋳鉄製シリンダ・ブロックを結合するスタッド・ボルトの設計に起因する水
漏れとそれに伴うオーヴァ・ヒートという難点を持っていることが判明するの
である。
 その一方でMGはMGB/ミジェットの後継車であるEX234計画を白紙
に戻し、MGB/ミジェットの商品寿命延命を図るべくマイナーチェンジを実
行していた。これはトライアンフTR4&スピットファイアを含む新BLMC
スポーツカー・ラインナップの整理統合計画をやり直す間の時間稼ぎとチし、BLMC体
制下
のMGBは後に「レイランド化」と呼ばれる延命処置を受けた。
これでBLMCのスポーツカー・レンジは下からMGミジェット&AHスプラ
イト/トライアンフ・スピットファイア/MGB(トゥアラー&GT)/トラ
イアンフTR5/ジャギュアEタイプの6車種ということになった。
 しかしこれはアビンドンが、不遇だったMGCに代わる上級MGスポーツを
必要としなくなったということではなかった。と言うよりもBLMCは結成さ
れたものの、いまだに元の各ブランドはそれなりの独自性(言いかえるなら
「自分勝手」)を許されていた。
 そこに一人の市井の技術者が、自分で改造した1台のMGBを持ち込んでき
たのである。

 彼の名は、ケン・コステロ。ケント州ファーンボロゥでミニなどのチューニ
ング・ショップを開いていた元レーサーである。
 彼は1969年の6月から11月の間に最初のローヴァV8搭載MGBを作
り上げた。それは正確にはシリンダー・ヘッドのスタッド・ボルトの仕様など
が強化されたオールズモービル仕様エンジンを搭載した、赤いトゥアラーだっ
たようである。
 広告よりも識者に乗せて記事化させる事を重視した巧みなセールス・プロ
モーションによって、彼の下には同じような改造を求める客が現れ、彼は翌年
からハンドメイドで改造を請け負い始めた。それは週に1〜2台のペースに及
んだ。
 この段階ではBLMCはコステロの会社に150ps仕様のローヴァV8を
供給していたのだが、彼がそれを使って何をしているのかについてはまるで知
らなかったし関心もなかったようである。
 彼が作り上げた<コステロV8>は、かなりの部分が顧客の注文に合わせた
仕様にすることが可能であったようだ。またトゥアラーもごく少数はあるもの
の、大半はGTボディを用いて製作された。その中であえて「標準仕様」とい
うものをリストアップすると、以下のようになる。

@150ps仕様ローヴァV8エンジン搭載およびそれに伴うエンジン・ベイの改造
ASUツイン・キャブレターをクリアするためのバルジが付いたFRPボンネットを装着
B標準用ギアボックスに強化クラッチを組み合わせてベル・ハウジングを改造
C標準用ディファレンシャルにMGC用の減速比3.071のギアを組み込み
Dグリル開口部はそのままに、荒い格子グリル(通称「エッグ・ボックス」)に変更
Eリライアント・シミターGTE用アロイ・ホイールに撃オコステロV8に目を付けたの
は一般ユーザーだけではなかった。ある
日1968年に結成されたばかりのBLMCの副社長チャールズ・グリフィン
から1通の手紙がコステロの下に届いた。彼のMGBコンバージョンを1台見
せて欲しいというのである。
 グリフィンがコステロV8のステアリングを握った2週間後、コステロはB
LMC社長ロード・ストークスに見せるべく1台の彼のコンバージョン・モデ
ルを携えてバークレイ・スクウェアに赴いた。そこで彼はコステロにこう言っ
たのである。
 「これを我々自身が作ったらどうするかね?」
 この時点でコステロV8の命運は決定されたのである。いかに彼の手になる
クルマの出来が生みの親であるメーカー首脳をも唸らせるものであったとして
も、所詮は市井の改造車にすぎない。資本と技術者が揃ったメーカーが本腰を
入れれば、一たまりもないのは火を見るよりも明らかだった。
 当初コステロは、このようなコンバージョン・ビジネスは量産には向かない
から自分は安泰だと考えていたようである。しかしその思惑は外れたものの、
メーカーが量産化を開始するまではまだ2年はかかると踏んだ。その間は彼も
商売が続けられるというわけである。

 BLMCは社内検討用としてコステロに新たにMGBコンバージョンを発注
した。それに応じて彼はBLMCから供給された新車のMGBと新品のロー
ヴァV8エンジンからGT/左ハンドル/ハーベスト・ゴールド仕様の1台を
作り上げた。そのクルマはドン・ヘイターを始めとするMG設計陣の手に渡さ
れ、テストに供された。彼は後のインタビューでこの車の幾つかの問題点を指
摘している。
 例えばそれは溶接によるステアリング・シャフトの取り回しとか、排気管に
近いその配置、またV8ゆえの排気管とクラッチ・ホースの近さなどである。
しかしステアリングに関しては、コステロは自社でのテストでは問題がなかっ
たと述べている。

 アビンドンで自社製MGBコンバージョンの開発が進められていた丁度その
頃、コステロV8(GT)は英国の自動車雑誌「AUTOCAR」'72年5
月25日号でテストに供された。そのデータを後のファクトリィ仕様と比較す
ると以下の通りである。( )内が後のファクトリィ仕様である。
  最高速度 :209q/h(205.7q/h)
  0−400m:15.8秒(15.8秒)
 この時の仕様は150ps/500 ともあれコステロV8がオリジナルのMGBに対し
て大差ない重量変動で馬
力/トルクの飛躍的向上を果たしたことだけは間違いのない事実である。ただ
しそれは決して安価に手に入るものではなかった。詳細は後章に譲るが、コス
テロV8はオリジナルMGB/GTに比べてほとんど倍に近い価格だったので
ある。

 1973年6月にファクトリィ製MGB V8は公表され、8月から市販が
開始された。同じ頃コステロは自分の作る<オリジナル>を、キャブレター配
置などを見直した「Mk.U」に移行させた。これはボンネットのバルジが不
用となったのが最も顕著な識別点だろう。
 <ファクトリィ>MGB/GT V8が発表される2週間前、コステロは大
胆にも「AUTOCAR」に半ページの広告を出稿した。曰く:
 「類似品にご注意!」
 しかし所詮改造車は量産車に敵うべくはなかった。コステロMGB V8M
k.Uはごく少数の生産に留まったのである。

 BLMCはコステロに対し直接のローヴァV8エンジンの供給を停止した。
さらに各ディーラーに対してエクスチェンジ以外でのローヴァV8エンジンの
販売を禁じる布告を発行した。これによりコステロは新品のローヴァV8を入
手する術を断たれたのである。
 そのため彼は解体車から取り出した40基の中古のビュイック/オールズ
モービル・ユニットをベルギーから輸入し、オーヴァ・ホールして用いる羽目
になった。

 コステロはその後も自らのMGBコンバージョンを作り続けた。1976年
に<ファクトリィ>MGB/GT V8の生産が終了した後も彼は仕事を続け
たが、その数は微々たるものである。
 1970年代にコステロV8のパーツを用いて別の工場で作られた模造品も
少なくないようだが、その品質は<オリジナル>には遠く及ばないという。
19695/19699 GFH01771 Corkey.O MGB V8 STORY part.5
( 1) 00/10/13 23:14

The fastest production MG from ABINGDON

Part5.そして<ADO75>
 実はMGBにV8エンジンを搭載する、というアイディアはケン・コステロ
の発明という訳ではなかった(最も企画初期のMGBの搭載予定エンジンが、
流産に終わったV4エンジンであったということは別にしても)。
 BMC時代から、軽量をもって知られるコベントリィ・クライマックスをV
8にしたものク敗の影響で、「最小限の投資で済むこと」という厳
しい条件が付けられてはいたのだが。
 BLMC時代を迎え、新しい首脳陣の認識は「量産スポーツカーはクーペ・
ボディが主力であり、広いエンジン/快適な内装仕様を備えているものがトレ
ンドである」というものだった。これはその頃イギリス国内で飛ぶ鳥を落とす
勢いだったフォード・カプリやダットサン240Zの影響だろう。
 さらにエンジンは大型化しつつあるというのがもう一つの認識であり、トラ
イアンフのTR6やスタッグもこの認識の下に企画されていた。
そうした中で彼等はコステロV8の存在を知ったのである。

 当初<EX249>というMG開発コードを、そして1971年8月4日に
<ADO75>という正式開発コードが与えられたMGB V8は、ベースで
ある4気筒版から最小限の変更で作り上げることが求められたとは言うもの
の、元々搭載していたエンジンとは排気量もシリンダー数も倍になるのだか
ら、それなりの工事は必要だった。
 ローヴァV8エンジンをMGBのボディに搭載するにあたり、まず行われた
のがエンジンの基本仕様の設定である。ローヴァV8エンジンは搭載される車
種に合わせて圧縮比などを変えた幾つかの仕様が存在するからである。
 結論から先に言えば、MGBに用いられることになったのは、P6B用の圧
縮比が9.35であったのに対して8.75と、レンジ・ローヴァ用に次いで
低いチューンの仕様だった。
 エンジン本体としてはこれ以外には特別に手を加えた部分は少なく、最も目
立つのは2つのタペットカバーがオクタゴン・マーク入りの専用品になった点
だろう。またコンパクトなローヴァV8と言えどMGBのエンジン・ベイの中
ではメカニカルな冷却ファンは装着できず、発熱量の増大に対応して大型化し
たラジエターを前進させると共に、新たに電動ファンを2基ラジエターの前に
設置することになった。さらにフロントエプロン(バランスパネル)部に2つ
のグリルを新設し、空気の取り入れ量の増加を図った(これは74年式のMG
Bブラックメッシュ・グリル仕様にも適用され、さらに後にMGBにウレタン
バンパーが与えられた時にはオイルクーラー用のエア・インテイクとなる)。

 次に目につくのが吸気系の改造である。
 コステロV8はセミダウンドラフトのSUキャブレターをVバンクの上にマ
ウントしたため、ボンネットをバルジトにしたのである。
 このいささか複雑な形状の吸気系レイアウトによって得られる恩恵は、標準
MGBのエンジン・フードがそのまま使えるようになったという点にある。当
然余分な設備投資を要せずに済んだ訳なのだが、これが「標準MGBとの外観
差の少なさ」に繋がり、後にGT/V8の割高感を生む一つの原因ともなっ
た。
 排気系は相対的に狭いMGBのエンジン・ルームの中に納めるために、鋳鉄
製の専用エキゾースト・マニーフォールドが新設された。しかしこれでもイン
ナー・ホイールハウスが若干干渉するため、インナーパネルの形状が変更され
ると共にマニーフォールド自体も排気ポートからかなり急激に内側へ絞りこむ
形状となっている。
 これらの吸排気系のレイアウトは話を聞くだけで効率が悪そうだが実態もそ
の通りで、MGB用ローヴァV8エンジンの最高出力は137ps/5000
rpm、最大トルクは26.6kgm/2900rpmということになった。
これを他のローヴァV8と比較すると、P6B用が155psだから10%以
上低いことになる。MGCが145psだからやはり劣りはするものの、トル
ク比較だとV8の方が上回る。

 さてこのエンジンと組み合わせる駆動系である。駆動系は基本的にMGCの
それを踏襲して、若干の変更を加えて使用している。
 トランスミッションはローヴァV8に合わせたベル・ハウジングを持った
ケーシングの中にMGC用(と言うことはほとんどMGB用と同じ)ユニット
を納めた。電磁式オーヴァ・ドライブは無論標準装備とされ、当初は4気筒版
と同じく3速/4速の双方に効く構造になっていたが、すぐにこれは4速のみ
に働く構造に改められる。またディファレンシャルはMGCに設定された何種
類かのうち最もギア比の高い3.071のものを使用した。
 これら駆動系のキャパシティに対してローヴァV8エンジンのパワー/トル
クは限界に近いようで、新設されたプロペラシャフトを含めこれらがB/GT
V8の弱点とも言われている。

 増強されたエンジン出力に対応しなければならない割には、サスペンション
系に加えられた改造は極めて限られている。
 MGCとは異なりエンジン搭載に伴うスプリング形式の変更も不必要であ
り、前後コイル・スプリングのバネ・レートのアップだけで済まされている。
しかしフロントロアAアーム付根に付けられるラバー・ブッシュは4気筒用の
烽フに集
中している。
 まずエンジン・ベイだが前述の通りエキゾースト・マニーフォールドを避け
たインナー・ホイールハウス形状に修正され、さらにミッション変更に伴うフ
ロア・トンネル部の形状変更、ラジエター前進に伴うブラケット等の変更など
も加えられている。
 しかし逆に言えば、4気筒MGBからの変更はこの程度に過ぎないとも言
え、これらの変更の多くは後にMGBがマイナー・チェンジを受ける際に導入
された事柄ばかりなのである。
 この事がMGBトゥアラー・ボディにローヴァV8エンジンを搭載するコン
バージョン作業を容易なものにすることになるのだが、それはまだ後の話であ
る。

 残る変更と言えば1972年8月に最大の輸出先である北米からの強い要請
でブラックメッシュ・タイプに変更されたフロント・グリル/左フロント・
フェンダー(ウィング)/テール・ゲートに付けられた「V8」のエンブレム
と、専用のアルミ・スチール・コンポジットのホイールだけである。
特にこのダンロップ製のホイールはアルミのセンター・ディスクにスチールの
リムをリベット留めした14インチ・サイズのもので、ホイール・ナットも足
付きの専用のものが必要な上に重い。
 しかしこれらが外観上4気筒版とV8とを区別する、わずかな手がかりであ
る。
 これ以外はインストゥルメント・パネルもシート/トリムも4気筒版MGB
と同一で、内装からV8と判断できるのはわずかにレヴ・カウンターの盤面下
すみに小さく入っている「8CYLINDER」の文字だけだろう。

 こうして誕生したMGB/GT V8のパフォーマンスは、まさに「最速の
市販MG」の名に相応しいものだった。
 最高速は200q/hを越え、0−400m加速は驚異の15秒台。これは4
気筒版MGBの175 q/h&18秒は当然のこととして、MGCの190q
/h&17秒台をも大きく凌駕している。
 それでいて26.6kgmものトルクがもたらす無類の力強さとV8エンジン
ならではのスムーズネスは、どのギアであってもBタイプ・エンジンでは決し
て得られないパンチ力ある加速と優れた高速巡航性を誇る。しかも太いトルク
に軽い車重(1,108kg―MGB/GT+30kg)、そして高いギア比の
組み合わせは予想以上の好燃費にも繋がる。
 MGB/GT V8は、機械製品としてはまさにMGBの原設計のポテン
シャル潜在能力の到達点を示すもiをリ
ストアップすると、以下のようになる。

MGB/GT                     £1459
コステロV8(標準)                 £2443
コステロV8(OD/ラジアルタイヤ/アルミホイール/リアウィンドゥデフォッガー装備)£2616
(以上1972年時)
MGB/GT V8                    £2294
トライアンフ・スタッグ・ハードトップ         £2533
トライアンフTR6PI                £1605
リラアント・シミターGTE               £2480
フォード・カプリ3000GXL             £1824
フォード・カプリ3000GT              £1651
TVR3000Mクーペ                 £2464
モーガン・プラス8                  £1967
ダットサン240Z                  £2535
(以上1973年時)

 このリストから分かるようにMGB/GT V8はベースとなったコステロV
8よりは若干安価とは言えMGB/GTよりも5割以上高価で、性能がほぼ等
しいと言われるフォード・カプリとの比較において4割近く高価である。
 これを称して著名な自動車ジャーナリストであるポール・フレールは「カプ
リと一緒に買い物用のミニが買える」と言ったほどである。
 MGBシリーズの中で最も高性能とは言うものの、MGB/GT V8発売
の時点でそのMGB自体がすでに発売から10年以上を経過していた事を考え
れば、内外装にまったくと言って良いほど手が入れられなかったMGB/GT
V8の商品性は、お世辞にも高いとは言えない。
 これはMGB/GT V8が抱える「アキレス腱」だった。景気が良い時に
は表立って大きな問題とはならないこの弱点も、いったん風向きが変わると致
命傷にもなりかねないものだった。
 その風は、まるでMGB/GT V8の登場を待っていたかのように吹いて
きた。それも凄まじい破壊力で全世界を荒れ狂う暴風だった。
 その風はシナイ半島から吹き付けてきた。

 イスラエルとアラブ諸国の間で繰り広げられてきた争いの起源を辿って行く
と、紀元前のバビロン捕囚にまで溯るという。
 様々な紆余曲折を繰り返しながら国を持たない流浪の民であったユダヤ人
が、宿願だっ力を得んとして、アメリカ/イギリスを中心とする連合
国は見返りとして戦後聖地エルサレムを含む一帯にユダヤ人の国家を創立する
ことへの助力を提示したのである。
 しかしこれは当時そこに居住していたパレスチナの民をまったく無視したも
のだった。彼らはキリスト教国家と長く対峙したペルシャの末裔であり、イス
ラム教徒でもあった。
 こうして父祖の地でありイスラム教にとっても聖地であるエルサレムを追わ
れたパレスチナの民のイスラエルに対する抵抗運動が始まった。さらにこれを
ペルシャ時代からのイスラム教国や西側寄りの国王を倒してイスラエル周辺に
相次いで誕生したアラブ諸国が公然と支援したことから争いはエスカレートし
て行った。
 イスラエルは世界の金融を支配すると言われたユダヤ人のネットワーク等を
後ろ盾にして、西側諸国からの有形無形の援助を得て瞬く間に中東有数の武装
国家となった。これに対抗すべくアラブ諸国は西側に対峙している東側(つま
り旧ソビエト連邦)に接近し、ここに東西冷戦の代理戦争の図式が出来上がっ
た。
 これは別な見方をすれば、中東で産出される莫大な量の原油の採掘権を巡る
争いでもあった。中東は世界の原油産出量の大半を占める地域であり、石油は
元々の燃料としての需要の増加のみならず、戦後の科学技術の発達等による石
油化学製品の原材料としての需要が急激に高まっていたのである。
 いち早くこのことに気付いた西側諸国は油井の上に出来上がったような中東
の王国群に様々な形で支援/援助/利益供与を行って原油採掘権を確保してい
た。しかしそれがもたらす極端な貧富の差や自分達の地で産出される物が他者
に搾取されていることに対する不満が、世界の原油の元栓を握っているとも言
える石油メジャーの中東における活動の阻害要因となっていた。
 そうした意味からもイスラエルが武力で周辺のアラブ諸国に対して睨みを効
かせる状況は望ましいものと言えた。

 「一触即発」の名に相応しいものだった中東の状況が、国連等を舞台とした
外交的非難合戦から実際に戦火を交えるまでにエスカレートするのは時間の問
題だった。
 こうした状況で発生したのが1948年に勃発した第1次中東戦争だった。
これはさらに1956年、 1967年とほぼ10年ごとに繰り返され、そし
て1973年の第4次中東戦争(別名「ヨム・キップル戦争」)を迎えるので
ある。
 ここでアメリ、言葉が生まれ、あらゆる
ものがその方向を指向した。それは直接ガソリンを消費する自動車においては
いっそう顕著だったのである。

 自動車における直接的な省エネとは「低燃費」のことである。それまでの自
動車はより大きな快適さを求めてサイズを肥大化させ、それは使用する各種材
料の量を増大させると共に重量増加をも招き、それがエンジンのさらなる高出
力化を必要とするという図式を成していた。そのために排気量は年々拡大し、
より大きな出力を得ていたのである。
 そのやり方は極めてプリミティブだった。送り込んだガソリンがエネルギィ
に変わる効率が低いとしても、より多くのガソリンをシリンダーに放り込んで
やればより多くの出力が得られるという考え方である。しかしその結果として
無駄に消費されるガソリンの量も増加すれば、老廃物として大気中に放出され
る有害物質の量も増大することになる。
 一方で第1次オイル・ショック以前に世界最大の自動車市場であるアメリカ
や年々力を付けつつあった日本では大気汚染による公害が問題視され、自動車
の排気ガスもその大きな改善対象とされていた。大きな収益源であるアメリカ
市場への輸出を意図する限り、その他の国の自動車企業もこの流れの外にはい
られなかった。
 これに対する対応としては「燃焼効率の向上による発生有害物質の量の削
減」ということになるのだが、このためにはガソリンの量を絞って混合気を薄
くする必要があった。これはそれまでの高出力獲得方法とは180度逆の方法
であり、結果としてエンジン出力は2割ほども低下し、商品力も同様に低下し
たのである。
 大排気量/マルチ・シリンダー車が主流を成していたアメリカではさらなる
排気量拡大で補う余地も残されていた。しかし元々小排気量車が主体の日本は
この点で大きく苦しむことになった。
 ここに追い討ちをかけるように襲い掛かってきたのがオイル・ショックだっ
たのである。省エネへのニーズが飛躍的に増大したといっても大気汚染対策の
必要性が低下した訳ではない。
 結果として世界の自動車企業は「クリーン」「エコノミー」「ハイパワー」
という互いに矛盾する要件を同時に解決しなければならないという、極めて難
易度の高い連立方程式を宿題として背負い込むことになったのである。

 これに対してビッグ3が君臨するアメリカはそれまで中途半端な形で行って
いた小型車開発にようやく力bヘ不可能であるこ
とを悟り、「燃焼」という現象を根本から解き明かす道を選択した。
 理論的に言えば一定の量のガソリンから得られるエネルギィの割合を示す燃
焼効率が向上すればするほど燃焼ガスの成分は無害なものに近づき、得られる
エネルギィ量は増大する。と言うことは排気量を小さくしてもそれまでのエン
ジンと同等の出力が得られる道理で、排気量の小型化は消費するガソリン量の
減少に繋がるのである。
 かくして燃焼効率を向上させるための様々な方策が模索されることとなっ
た。それまで無為に廃棄していた排気ガスに潜む残存熱エネルギィを回収する
ことで燃費効率を向上させるターボ・チャージャーが日本で普及したのもこの
時期のことであり、より木目の細かい燃料マネージメントのためにそれまでの
機械式キャブレターに代わって電子制御式燃料噴射装置が一般化したのも同様
である。
 さらに強い渦流を発生させることで希薄な混合気にも安定した着火が可能な
燃焼室形状の設計や、最終的に排気ガス中に残る有害物質を無害化させる触媒
の高性能化などが加わって、ここに日本車は不可能とすら言われた連立方程式
をついに解くことに成功したのである。
 この過程で得られたノウハウは、他国の企業が一朝一夕には到底追いつけな
いほどの質と量だった。これに日本が以前から保持していた優れた製造品質と
高度な原価管理が加わったとき、すでに日本車は世界の頂点に立つことを約束
されたも同然だった。
 少なくとも機械製品としては。

 MGB/GT V8がデビューしたときの社会情勢とは、こうしたものだった
のである。世界の自動車産業全体を巻き込む激動の20年の幕開けを告げるオ
イル・ショックの勃発の中で生まれ出たことがMGB/GT V8の最大の不
運であり、この事は後のBLMCの末路を暗示させるような出来事でもあっ
た。
 MGB/GT V8自身は高いギアリングと少ない車重に太いトルクの組み
合わせによる恩恵で、実は印象ほど燃費の悪いクルマではない。具体的に言え
ば慢性渋滞の東京都内でさえ、リッター8キロを記録することはさして難しい
ことではないのだ。
 しかし世界中でヒステリックに省エネが叫ばれ、安全対策が声高に論じられ
る中にあって、「スポーツカー」「大排気量車」はそれだけで罪悪視される風
潮だった。その二つの要素を二つとも備え、さらにオイル・ショックを契機と
した不況の中で価格閨Aわずか183台の生産
に留まりその生涯を終えた、かに見えた。
 MGB V8の物語はそれから16年の長き眠りを経て、誰しもが予想しえ
なかった意外な結末を迎えることになるのである。
 その物語については、拙著「THE BIRTH OF ADDER」をご参照いただきたい。

 ともあれMGB/GT V8のわずか4年間の生涯に残された全生産台数
は、先行生産車を含み2591台(左ハンドル車7台を含むメッキバンパー・
モデル1856台、ウレタンバンパー・モデル735台)にすぎない。
19697/19699 GFH01771 Corkey.O MGB V8 STORY part.7
( 1) 00/10/13 23:15

The fastest production MG from ABINGDON

Part7.5つの疑問
 さてこうして誕生し、わずか4年あまりの生涯を終えたMGB/GT V8
だが、あらためて振り返ると幾つかの疑問に行き当たる。
 まず第1の疑問が「なぜGTボディだけだったのか」である。
 公式の説明は「トゥアラーはボディ強度が低いから」というものである。し
かしこれは考えてみるとおかしな話である。馬力だけで言えばV8よりも大き
かったMGCは、全生産台数約1万台の半数がトゥアラーだったのだから。
 とは言うもののMGB/GT V8が企画された当時の世界のスポーツカー
の趨勢は、前述のようにクローズド・クーペにあることは事実だった。しかも
輸出市場を見ると、数年後にアメリカでの施行を控えた新安全規制とその後に
待つさらなる規制の強化によって、オープンカーの行手には暗雲が垂れ込めて
いた。
 もう一つまことしやかに語られる理由が「ローヴァV8エンジンの供給量に
は限りがあった」というものである。しかしこれまたすぐにはうなずけない。
 当時すでにローヴァV8エンジンはP5/P6に用いられ、さらにモーガン
にまで供給されていた。仮にMGB V8にトゥアラーもラインナップされて
いたとしても、MGCのデータを基に推定するとMGBに用いられるユニット
の数は最大でもせいぜい月400基にすぎないからだ(これを「多い」と見る
か、「少ない」と見るかについては見解が分かれるかも知れないが)。

 この第1の疑問に答える前に、第2の疑問を提示することにしよう。「なぜ
英国国内のみの販売だったのか」である。
 これは厳密には正確ではない。MGB/GT V8は量産先行型として北米
仕様に合わせた専用型式が与えられた左ハンドルのモデル(G−D2D2)が
7台生産され、これらはいずれも後に欧州大陸で売却されているからである。
 これは「BLMCにはMGB/GT V8を北米で販売する意図があった」
という証拠である。
 では何故?
 その答は一言で言ってしまえば「かけた費用に見合うだけの販売が見込めな
いから」だった。
 「世界で最もスポーツカーの密度が高い土地」と言われたカリフォルニア地
区は、オープンカー嗜好が強い土地であると同時に日本と並んで世界で最も排
気ガス規制と安全規制の厳しい土地でもあった。そこで自動車を販売するには
エンジンに排ガス対策を施さねばならず、それは決して安価ではなかったので
ある。
 さらにこのエンジンの元々の生みの親であるGMは、自分が売却したこの軽
量エンジンがスポーツ/スポーティカーに搭載されて北米大陸に逆上陸するこ
とを恐れていたふしも見られる。
 かくしてMGB V8は北米市場不適の烙印を押されたのである。アメリカ
大陸での販売が見込めないとすれば、あえて左ハンドル・モデルを生産する必
然性はなきに等しい。こうしてMGB V8は右ハンドル仕様のみ、というこ
とは事実上英国国内販売のみに留まらざるを得ないことになったのである。
 さらに英国国内におけるMGBの販売比率は1965〜1980年通算で
トゥアラー:GT=38:62とGTの方が多く、MGB V8はGTボディのみ
という結論が下されたものと推測されるのである。
 実はこの決定の裏にはもう一つ別な要素が潜んでいることも考えられるのだ
が、これについては次に述べよう。

 さて第3の疑問は「なぜわざわざチューンの低い仕様のエンジンが搭載され
たのか」である。
 確かにMGB/GT V8に用いられたローヴァV8は吸排気系の効率が悪
い専用の設計だったが、根本的に圧縮比が低い仕様のエンジンだった。
 これも公式には「ボディがもたないため」が理由とされているのだが、前述
の通りMGCを考えてみれば到底納得できない説明である。ここにBLMC内
部の勢力争いという側面が顔を出すのである。
 BLMCが結成されてその指揮を執ることになったストークス卿、そしてロ
ングブリッジの技術部門の長に納まったハリー・ウェブスターの二人は、共に
「トライアンフ・マン」だった。そのトライアンフでは新開発のSOHC
3000ccV8エンジンを搭載したタルガ」のスポーティ・
パーソナルカー「スタッグ」の開発がまさに佳境に入っており、MGB/GT
V8はこのスタッグと競合する車種になりえるクルマだったのである。
 スタッグの販売を阻害しないために、あえてMGB/GT V8のエンジン
は低いチューンに留められたのではないかというのが筆者の推測である。
 仮にこれが事実だとすると、前述の第2の疑問に対するもう一つの答が見え
てくる。開発途上にあったスタッグはロールバー付きコンバーチブルであり、
しかも当時トライアンフは2500cc直列6気筒 150psエンジンを搭載
したオープン・ボディのTR5を生産していた。もしもMGBトゥアラーがロ
−ヴァV8エンジンを得たら、それは間違いなくトライアンフを凌駕するス
ポーツスターとなっていたはずである。「トライアンフ・マン」はそれを嫌っ
たのである。
 これがあまりにMGに肩入れした見解であると言うのなら、1961〜'73
のトライアンフTR4/TR4A/TR5/TR250合計の生産台数は約8
万台。対して同時期の1961〜'73MGB/MGCの総生産台数はじつに
その4倍以上にも及ぶ、合計約34万5000台(※トゥアラー/GT合計)
であったという事実を想起いただきたい。
 それにもかかわらずトライアンフTR7のためにMGB/GTは輸出市場か
ら撤退させられ、BLMCの組織上トライアンフは「ローヴァ・トライアン
フ・ディヴィジョン」の一員だったにもかかわらず、MGは「オースティン・
モーリス・ディヴィジョン」の中の名もない一構成員にすぎなかったのであ
る。
 販売台数が1/4に満たない車種の方を優遇するようなやり方こそ、不当に
トライアンフに肩入れしたやり方とは言えないだろうか。

 第4の疑問は「ローヴァV8以外のエンジンの搭載は考慮されなかったの
か」である。これは事実上「なぜ新開発のスタッグV8を使わなかったのか」
という疑問に等しい。しかしこれは容易に答の出る疑問ではある。
 なぜならスタッグV8の重量は約200kgで、ローヴァV8とは約55kgほ
どの重量差がある。設計年次に10年以上の開きがある事を思い返すとロー
ヴァV8の軽量さにはあらためて驚かされるが、MGCのノーズ・ヘビーにさ
んざん呻吟したMG設計陣がBタイプ・エンジンより95kgも重かったCタ
イプ・エンジンよりはましだとは言え、55kgもの重量増加をすんなり受け入
れるVリンダー・ヘッドの歪みに
よる水漏れとオーヴァ・ヒートが市場問題化したから、MG設計陣の選択はそ
の意味からも正解であったのだが。

 最後の疑問は、永久に謎のままかも知れない。「なぜMGB/GT V8は
市販されたのか」である。
 果たしてBLMC首脳陣は、スポーツカーの大票田アメリカでの販売を断念
し、英国国内限定販売で、しかも前項のような価格競合状況にあって、採算が
取れるという確信はあったのだろうか(オイル・クライシスを予見できなかっ
たことは不可抗力としても)。
 3年間通算で1万台弱を生産したMGCですら、右ハンドルのGTに限ると
2030台しかない。しかも先行するフォード・カプリのような国内の強力な
競争相手に加え、MGCの頃には姿もなかった日産フェアレディZやトヨタ・
セリカのような、遠い極東からの強力極まりない新たなライバルが登場してい
たのである。
 普通であれば競合他車との価格差の問題やすでに開発/発売が進んでいる自
社内の他車種などを考慮して、「商品力に乏しい」として市販を断念してもお
かしくはない。それでもBLMCが費やした開発費は通常よりも遥かに安かっ
たはずである。
 単純に「動き始めたトロッコは止まらない」というBLMCの官僚体質のな
せる技だったのか、それともその開発費すら惜しんだのか。はたまたMGのス
タッフの、トライアンフに対する意地の張り合いが生んだ鬼っ子だったのか。
今となっては定かではない歴史の闇の中である。
 一つだけ確かなことは、MGB/GT V8という形でひっそりと蒔かれた
種は命脈尽きかけていたMGというブランド自身の復活を宣言する狼煙役とし
て、16年後に花を咲かせたということである。
 その意味でMGB/GT V8がMGの歴史に果たした役割は、他のどのモ
デルにも増して大きなものがあると言うこともできるのである。
19698/19699 GFH01771 Corkey.O MGB V8 STORY part.8
( 1) 00/10/13 23:16

The fastest production MG from ABINGDON

PART8.毒蛇の卵:MGB V8 コンバージョン・モデル
 1976年になって、MGBはGT V8の退場と入れ替わるように生涯最
大級の規模のマイナー・チェンジを受ける。外観こそ前年までのウレタンバン
パー・モデルとの差違は認められなかったものの、実はその中身は大きく改良
されていたのじ事を行った時よりも遥
かに容易に実行可能だった。
 かくして英国では個人や、「V8 Conversion Centre」を
始めとする多くのショップの手によってMGBのローヴァV8エンジンへの換
装モデルが次々に誕生していったのである。それどころか英国においては
「HOW TO GIVE YOUR MGB V8 POWER」なる、V8コンバージョンの手引書すら
発売されているほどである。
 ユーノス・ロードスターに触発されたローヴァ首脳陣にプレゼンテーション
されて大きな印象を与え、MG復活とRV8誕生のそもそもの原動力となった
のも、この本の表紙も飾っているロジャー・パーカー氏所有のMGBトゥア
ラーV8コンバージョン・モデルの1台だったのである。
 そうした意味からも、MGBトゥアラーV8コンバージョン・モデルは、M
GB/GT V8とRV8との間を繋ぐ「ミッシング・リンク(失われた
環)」というべき車種であると言える。

 当然のことであるがV8コンバージョン・モデルは1台1台のワン・オフ
(単品製作)である。そのため仕様も仕上がりもバラバラである。
 エンジンにしてもMGB/GT V8用をそのまま搭載したものから、他車
からスワップしてきたものなど様々な調達方法がある。ローヴァV8のエンジ
ン・スペック自体、RV8用3900ccEFI190ps仕様はおろか究極
的にはTVRが自社のグリフィス用に独自にチューンした5000cc370
ps仕様や、それをさらにチューンした500ps仕様というものすら理論的
には搭載可能なのである。
 トランスミッションも同じことが言えるが、ローヴァSD1のスポーティ・
ヴァージョンであるヴィテスが用いたLT77型5速マニュアルシフト・ユ
ニットを用いることによって、MGB/GT V8の弱点の一つを解消するこ
とも可能である。
 因みにこのLT77ユニットは、1−2速の間の動きが直線ではないとかシ
フト・フィールが全般的に硬いなどという欠点があるものの、RV8初期型に
も用いられている。またこれもSD1用のATユニットを用いることで、V8
+ATという快適仕様に仕立てることすら可能である。
 ボディも前述の通りウレタンバンパー後期型をベースとするものが主流では
あるがそれ以前のモデルに改造を施してコンバージョンしたものがないわけで
はなく、またヘリテイジ・ボディを使って各部の強化を施して仕上げるという
理想菟双方のパーツを組み合わせることで「R
V8/GT」(これをコンバージョンと呼ぶかどうかは異論もあろうが)とい
うクルマを作り上げたショップもあるようである。

 ことほどさようにコステロの最初のプロトから数えると、MGBにおけるV
8コンバージョンの歴史は 30年近くにも及ぶ。
その中でもMG専門誌などで見かけることの多い「標準仕様」というものをあ
えて選び出すと、次のようになる。

 ベース・ボディ:MGBトゥアラー最終型英国仕様
 エンジン   :ローヴァSD1用3528cc圧縮比9.35仕様
 キャブレター:ホーリィ4バレル4160−8007型
 インテイク・マニーフォールド:オッフェンハウザー・デュアルポート
 トランスミッション  :ローヴァLT77型ユニット

 これにMGB/GT V8の鋳造エキゾースト・マニーフォールドを装着し
た状態でのエンジン出力は、シャーシィ・ダイナモによる計測(駆動輪出力)

 最高出力  :165ps/5190rpm
 最大トルク:26.3kgm/1910rpm

という実測データが存在する。
 通常のカタログ記載のエンジン出力データはエンジン+補器装着状態での出
力軸計測値であり、駆動輪計測では当然駆動系のロスによるハンディキャップ
を負っていることは留意されたい。
 なおこの数値は鋼管製エキゾースト・マニーフォールドやヴィテス用ピスト
ンによる圧縮比のアップ(9.75)などのライトチューンで200ps弱ま
で強化することは容易である。

 上記リスト内にあるキャブレターとインテイク・マニーフォールドに関して
は説明が必要だろう。
 MGBのボディにローヴァV8を搭載するにあたり、昔から一番苦労するの
が吸気系だった。元々直列エンジン向きのSUキャブレターは背が高く、それ
をVバンクの上に設置したのではボンネットを突き破ること必定である(コス
テロV8がこれだった)。
 またインテイク・マニーフォールドの上に付けるMGB/GT V8用に作
られたSUキャブレター用プレナム・チャンバーは長く欠品で入手困難な状況
が続き、またMGB/GT V8独特のキャブレター・レイアウトではミクス
チュアの調整が極めて困難という欠点もあった。
 これに対して昔からV型エンジンが多かったアメリカでは、これに適したダ
ウン・ドラフト構造のキャブレターもまた多かった。カーター、ロチェス
ター、そしてホーリィなどというる。セカンダリィのバタフライは機械的には結合されて
おらず、プライマ
リィの吸気圧に連動して作動を開始する仕組みである。このためエンジン排気
量に対して大きすぎるキャブレターを装着してしまうと、セカンダリィが作動
するのに必要な吸気圧が発生しきれないなどというトラブルが起こりうる。
 蛇足だがこれは特にホーリィに限ったことではなく、キャブレターにおいて
は「過ぎたるは及ばざるがごとし」というのは概ね真理である。
 このキャブレターに組み合わせるインテイク・マニーフォールドもアメリカ
製である。主に用いられるのはオッフェンハウザー製で、プライマリィ/セカ
ンダリィの2つのベンチュリィからの混合気を効率よく合わせて各シリンダー
に供給するデュアル・ポートが使われることが多いようである。
 通常はこれらに薄い円盤型のエアクリーナーを組み合わせることで、MGB
のボンネットをそのまま使うことが出来る。しかし3500ccV8エンジン
は大量にフレッシュ・エアを必要とするため、周辺部から吸気する形式のエア
クリーナーの直径はかなりのものになる。
 結果としてエンジン・フードを開けて最初に目に飛び込んでくるのはホイー
ル・キャップと見まがうようなメッキの巨大なエアクリーナーということにな
るのである。

 これらキャブレター以外にもMGB V8コンバージョンに用いることの出
来る吸気システムとしてはローヴァSD1ヴァンデン・プラ対米仕様に用いら
れたホット・ワイヤ式EFIがある。
 RV8に先立ってローヴァ首脳陣にプレゼンテーションされたロジャー・
パーカーのクルマに装着されていたのもこれであるが、始動性の改善などに目
立った効果はあるだろうが動力性能的にはホーリィには劣るようである。ただ
しRV8用とはことなりエアサージ・タンクが薄いため、ボンネットとの干渉
はない。
 またEFIの場合は燃料ポンプもさらなる強化が必要であり、またコン
ピューターのトラブルなどという火種を内包することになるのは覚悟がいるだ
ろう。

 メカニズム関係で最も個体差が大きいのはディファレンシャル・ギアの選択
だろう。大雑把に言えば、V8コンバージョン・モデルにおけるデフの選択肢
は3つある。
 一つが4気筒版MGBの物をそのまま用いる方法。もう一つがファクトリィ
版のGT V8と同じくMGCの物を用いる方法。そして最後が1992年に
登場したRV8用のトルセン式LSDを搭載する方法である。
 ノーマルMGBのデフを用いた場合、ローヴァV8のパフォーマンスに対し
て絶対的なギア比が低いために、加速力は大幅に向上するものの高速巡航時に
はエンジンの性能を生かしきれない。またBタイプ・エンジンに対する大幅な
トルク増大がデフの耐久性に及ぼす影響は軽視できないものがある。
 この点では実はMGC用デフも大差はなく、MGB/GT V8の弱点がこ
のデフとプロペラ・シャフトであることは前述の通りである。
 RV8用トルセンLSDはその点では最も安心できる選択であるものの、価
格が非常に高価であることとリア・タイヤのトレッドがわずかに広がるという
点は指摘しておかなければならない。

 こうして生み出されたMGB V8コンバージョン・モデルは、MG専門誌
などの売買欄では必ず数台発見することができる。
 その価格は£10000程度からで、「ヘリテイジ・シェル使用」などと書
かれていると£15000以上を付けていることも珍しくない。
 日本においては15年ほど前に東京都内の某ショップの注文によって「V8
Conversion Centre」で作られた1台が並行輸入された記録があるのみで、G
T V8を含むMGB V8はメッキバンパーのGTが3台、ウレタンバンパー
のGTが1台、そしてコンバージョンのトゥアラーが1台の合計5台が現在確
認されているのみである。
19699/19699 GFH01771 Corkey.O MGB V8 STORY APPENDIX
( 1) 00/10/13 23:16

The fastest production MG from ABINGDO:APPENDIX

 本稿は下記書籍/雑誌等を参考にした

<書籍>
MG THE UNTOLD STORY;DAVID KNOWLES/MOTORBOOKS INTERNATIONAL
MG V8;DAVID KNOWLES/WINDROW&GREENE
MGB THE ILLUSTRATED HISTORY(2nd);WOOD&BURRELL/HAYNES
PROJECT PHOENIX THE BIRTH OF MGF;IAN ADCOCK/BLOOMSBURY
THE MIGHTY MGs;GRAHAM ROBSON/DAVID&CHARLES
HOW TO GIVE YOUR MGB V8 POWER;ROGER WILLIAMS/VELOCE

<雑誌>
MG ENTHUSIAST MAGAZINE
THOROUGHBRED&CLASSIC CARS
CAR GRAPHIC
SUPER CG

<その他>
The History of MGB part.0〜8;Corkey.O
The birth of "ADDER"part.0〜8;Corkey.O

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