The birth of "ADDER"
part.1:"HERITAGE MGB"誕生



The birth of "ADDER" part.1:"HERITAGE MGB"誕生

 「RV8誕生」を語る上で、どうしても欠かす事のできない事は '88年か ら開始されたMGBホワイト・ボディの再生産である。

 英国民族資本自動車企業の業績/歴史などの保存を行っているブリティッシ ュ・モーター・インダストリィ・ヘリテイジ・トラスト(BMIHT)の組織の一つとして、補給部品の再生産と供給を行うための機関としてブリティッシュ・モーター・ヘリテイジ(BMH)が誕生した。
 1986年にBMH重役であるデヴィッド・ビショップは、各地に散逸して
いるMGBの生産治具をもう一度集めれば、MGBのモノコック・ボディシェ ルの再生産が可能になるのではないかというアイディアを得た。
 実はTR7のボディ・プレス治具はすでに大半がスクラップ化されてしまっ ており、ビショップは「MGBには同じ悲劇を辿らせない」という決意の下に残されている治具および生産工具の捜索と確保に取りかかった。
 1987年3月の終わりまでには捜索は終了し、800種類1000トンを 越える治具/工具がオクスフォード郊外ファリンドンに運ばれた。何と消失していた治具はたったの4つだけであったのは、幸運としか言いようがない。
 しかし見つかった治具/工具も大半は屋外に(物によっては20年近くも) 放置されていたもので補修は必要だったが、逆に言えば「補修すれば使えた」という事でもあり、またどのみち大量生産をする訳でもない(せいぜい週に15台の 生産である)ので、その用途には差し支えなかった。
 その程度の生産台数であれば工場施設も小規模で済む。また通常の高度なコ ンピューター制御によるオートメーション設備など使わなくとも、未熟練労働でも作れるこの世でもっとも安価かつ融通性の高いコンピューター「人間」の手で生産が可能である。
 かくしてビショップはローヴァ・グループの工場のあちらこちらから必要な 設備(スポット溶接機など)をかき集めてファリンドン工場に持ち込んだ。
 次に彼はその「安価なコンピューター」探しに取りかかった。プレスド・ス ティール社(元々MGBのボディを生産していた)や旧BL各工場で古い手作業ラインに慣れたジャック・ベリンジャーを始めとするベテランの退職社員達4名が雇用された(1990年暮の時点では17名とされている)。

 かくして準備は整った。1988年4月30日バーミンガムはナショナル・ エキジビション・センターで開催されたクラシックカー見本市において、遂にMGBヘリテイジ・ボディはデビューした。
 これにより「機構部品は問題がないが、肝心のボディが・・・」というMG Bからこのヘリテイジ・ボディに移植を行う事で錆の心配のないMGBが誕生するという、ヒストリック・カー乗りにとってはまさに夢の世界の出来事が現実のものとなったのだ。
この再生産ボディを用いた最初のMGBは「TAX192G」(通称『タクシ ー(TAXI)』)のレジストレーション・ナンバーを与えられ、ミュージアムに収められている。

 当初ヘリテイジ・ボディにはドアがなかったのだが、 '89年に行方不明だ ったドアヒンジの治具が発掘された事でこれも解消された。さらにメッキバンパー仕様/右ハンドル/トゥアラーから始まった再生産もウレタンバンパー、左ハンドル、GTと次々に展開が図られ、現在ではミジェット、トライアンフTR6/スピットファイアなどもMGB同様に再生産されている。
 BMHでは当初小売をせず、基本的に全世界のスペシャル・ショップに対し て販売していたが、現在ではBMIHT認定ショップを通じて一般消費者にも2379.15ポンド(ウレタンバンパー・トゥアラー/亜鉛防錆コート済)で販売しているようである。
 現在日本にもヘリテイジMGBは少なからず存在しており、200万円を越 える様な値付けをしているMGBはよほど徹底的なレストアレーションを行ったものか、このヘリテイジMGBであると言って良いだろう。
 
 MGBヘリテイジ・ボディの商業的成功(小規模とは言え)は、事実上のM Gの終焉から10年近くが経過してなおMGが世界の人々から愛されている事
の明白な証明でもあった。
不死鳥は自らを焼き尽くした灰の中から若々しい姿に変えて蘇るという。アビ ンドンを始めとする各地の旧BL工場の屋外に放置されていた治具の錆の中で、MGはじっと「その日」を待っていたのである。




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