The birth of "ADDER"
part.6 : From MGB to ADDER
さて、話をアダーその物に戻そう。
1989年7月に開催された「新MGスポーツに関する企画会議」をきっかけ として、RSPにおいてPRシリーズと共に「MGB復活計画」が開発がスタートした。
予想されうる新MGの顧客は二つに大別できると考えられた。伝統主義者と 新規主義者である。復活版MGBはこの二つを繋ぐものとなる様に計画されることとなった。PR3への道を開くと共にMGBとの強い関連性を持たせるという役割である。
別な見方をした時に、復活版MGBの顧客と目されるユーザー像は「財政的 に豊かで、中年で、オープンMGスポーツカーの時代に対する郷愁を抱いている人」と想定された。
現在のRSPの長であるスティーヴ・シェルマーは「RV8は『究極のスポ ーツカー』として開発されたものではなく、アビンドン生まれの先祖の伝統に従った安全かつ楽しめる車を目指した」と語っている。
また彼の先任だったドン・ワイアットは、彼らが目指したのは「もしもMG Bが(ポルシェ911のように)生産中止されずに現代まで生き残っていたらどういうスタイリングを纏っていたか」というコンセプトだと言う。
さらに別のスタッフ、マイク・オハラは「クラシック・ブリティッシュ・ス ポーツカーをRV8で作ろうとした。それはエンシュージャスト向けの極めてスペシャルな車で、アップデイトされ欠点のないクラシックカーである」と語る。
最初にBMHによって制作されたプロトタイプは通称「DEV("Develop"の
意か?)1」と呼称された個体で、「LFC436S」の登録番号を付けた左ハンドルのUS仕様をベースにした車でエンジンは新品の3500cc仕様V8だっ
た。これが1990年3月にローヴァ首脳に対してプレゼンテーションされた車だった。
この時点ではボディは独自のデザインは与えられておらず、205/65− 15タイヤをクリアするためのオーヴァ・フェンダーが付けられて、ハードトップが装着されるなど、あくまでMGBを基にV8エンジン搭載に対応するメカニカルな改造にとどまっていたようである。
上記以外の改造点は、MGB/GT V8で問題とされていたローヴァV8 の大トルクに対抗するためリア・リーフスプリング前部取り付け部を補強すると共にアンチ・トランプ・バーが追加された。またリア・ディファレンシャルへのLSDの追加も全力加速時のリア・アクスルが暴れるのを抑えるであ
ったようだ。
このプレゼンテーションにより「MGB復活計画」は毒蛇「アダー」の名前 と共に次の段階に進むことが許された。スタイリングの検討である。
しかし非常に不思議な事は、アダー計画においてはスケール・モデルによる 検討が行われた形跡がなく、すべてデザイナーのレンダリングから実物大のモデルが作られたと思われる点である。
アイディア・スケッチ→カラー・レンダリング→スケール・モデル→実物大 モデルというのが通常の自動車開発の流れであり、スケール・モデルを飛ばしていきなり実物大というのはあまりにも乱暴な印象を与える。
しかしアダー計画は最初から時間と予算が潤沢に与えられたプロジェクトで はなく、そのためベースとなるMGBがある事を利用してスケッチから一足飛びにフル・スケール・モデル制作にかかったというのが唯一考えられる理由である。
ともあれジェリー・ニューマンの手になるベース・スケッチをブルース・ブ ライアントがカラー・レンダリングに起こし、これが外部デザイン事務所であるスタイリング・インターナショナル社に送られ、インダストリアル・クレイによる外観スタイリングモデルが制作された。
そのスタイリングにはすでに後のRV8のフロント・フェイスが現れている がホイール・アーチはブリスター・タイプではなく、ホイールハウス開口に合わせたフレア・タイプのオーヴァ・フェンダーになっている。さらにスケッチではリア・エンドはスクウェアに切られ、そこにスポイラーが装着されていたが、これがクレイで再現されたかどうかは定かではない。
クレイ・ワークにかかって明らかになった問題は、EFIユニットのサージ ・タンクの大きさである。これは1975年にMGBにウレタンバンパーが装着された時のような悪い結果をもたらすのではないかと危惧された。
一方フロント・エンドに関しては(乏しい中でも)十分な予算配分が可能だ ったために、ここにモディファイの努力は集中した。大きな要素であるヘッドライトは他の車種の物を流用する事を想定し、様々な車種の物が検討された結果残ったのはポルシェ911用(タイプ956以前)だった。
'90年8月には赤い塗装フィルムで艤装されたこのクレイ・モデルが完成 し、マーケティング・ディレクターのケヴィン・モーレィに対して提示された。しかしV8エンジン搭載MGBというコンセプトには賛同を得たものの、スタイリングに関して彼から色良い返事を引き出す事はできなかった。
一方でPRシリーズは同じ頃開かれたPR1〜3のテストコース評価実験の結 果FFレイアウトのためにPR1が除外され、PR3/PR2から移行したPR4/そしてPR5を加えた3台が、さらに開発を進められる事となった。
アダーはモーレィに対するプレゼンテーションの後4〜5カ月の間棚上げ状 態にあった。このままプロジェクトがキャンセルされる可能性もあっただろうが、それを再び動かしたのはRSPのヘッドであるリチャード・ハンブリンだ
った。 カンレィ・テストコースでロジャー・パーカーのMGBトゥアラーV 8コンバージョンに接して以来、アダー計画の積極推進派だった彼は、このコンセプトの潜在的商品性に確信を抱いていたのである。
チームはアダーの存在理由をもう一度検証した。その結果出てきたのが「M Gの名を(スポーツカーの物として)生かし続ける」という事であり、また「新しいスポーツカーの先駆者であるという事を示す」事でもあった。そのために「MGBは英国の最量販スポーツカーであったと言うことを人々の心の中に思い起こさせる」事が必要であり、同時に忌まわしい
'70年代ではなく栄光の '60 年代に思いを至らせなければならないと考えられた。
こうして一度はマーケティング・ディレクターからNGの出たアダー1次ク レイモデルは、さらにその姿を整えるべくRSPのデザイナーであるディック・バートンと共に外部デザイン事務所であるADCに送られた。
蛇はヘッドを潰さなければ死なないのである。
Back | Forward