The birth of "ADDER"
part.8 : Yes,the Japanese is crazy.So..
バーミンガム・モーターショウでついに世に出たRV8だったが、問題が一 つ残されていた。開発中の市場状況の変化によって、投資対象としてのクラシックカー市場は縮小していたのである。
これによってRV8の先行きにいささかの懸念が生じたのは事実だったが、 一方ローヴァ本社を遠く離れた極東の日本ではそんな物などどこ吹く風で、まるで違った心配をしていたのだった。
「果してRV8は日本に輸入されるのか?されるとしたら価格は幾らになる のか?」
一方1993年3月31日、カゥレィのラインからブリティッシュ・レーシ ング・グリーン・メタリックに塗られたRV8初号車がライン・オフした。いよいよ毒蛇が野に放たれたのである。
デヴィッド・ビショップのMGBトゥアラーV8コンバージョンがローヴァ 首脳陣の頭を一撃してから、4年近い月日が経っていた。
RV8初号車に与えられたシリアル・ナンバーは「000251」。これは アビンドン工場の電話番号に由来する、TF以前のMGスポーツ初号車が必ず与えられていた伝統の番号だった。
この車は販売を意図しておらず、ラインからヘリテイジ・ミュージアムに直 行した。最初の顧客向けの6台が完成したのは4月19日の事であった。
いよいよ13年ぶりに新車のMGスポーツカーが路上を走り出したというの に、日本でRV8がどうなるのかはいっこうに明らかにされていなかった。少なくとも一般の目には。
開発記号「ADD303」号車。ブリティッシュ・レーシング・グリーンに 塗られたこの車こそ、密かに地球を半周して日本に上陸していたRV8日本仕様の試作車だった。その最大の目的は、日本仕様として不可欠のエアコンの開発と酷使される冷却系の試験だった(排気ガス対策は基本的に同じエンジンのレンジ・ローヴァなどで経験済だった)。
エアコンのコンデンサーを装着する必要があるため、本国仕様ではドライヴ ィング・ランプが装着されている部分のフロント・バンパーはメッシュのグリルに変更され、その影にコンデンサーが配されていた。
そして初夏のある日、日本最古のワンメイク・モータリスト・クラブである MGカークラブ・ジャパンセンターのメンバーがローヴァ・ジャパンによって都内某所に招待された。
そこでRV8日本仕様試作車を前に希望価格を尋ねられたクラブ・メンバー 達は答えた。
「400万円以下」
これはエアコン抜きでの本国価格が26000ポンドする事を考えればおよ そ非現実的な金額だが、850万円でホンダNSXが買え、何よりユーノス・ロードスターが170万円から買えるこの国では、本国価格から予想される「600万円のMGB」はあまりにも法外だった。
そして数カ月後の1993年10月千葉市美浜区日本コンベンションセンタ ー、通称「幕張メッセ」。第30回東京モーターショウのプレス・デイの場にウッドコート・グリーンのRV8がいた。
フロント・フェンダーに「ROVER」のエンブレムが付き、フロント・ホ イールアーチにはボディ同色のオーヴァ・フェンダーが追加されていた(法規によるものだったが、後に廃止される)。
これがまぎれもない市販型RV8日本仕様の姿だった。
すでに一部の並行業者などが600万円の値付けをしていた注目の価格は驚 愕の「399万円」。MGカークラブ・ジャパンセンターのメンバーがどれほど本気で言ったのかは別にして、ローヴァ・ジャパンは本当に400万円を切る価格を付けてきたのだった。
同時に日本向けRV8の割当て台数は500台で、発表と同時に予約を受け 付けると公表された。
2週間後に東京モーターショウが終わった時、ローヴァ・ジャパンは約1400 人分のウェイティング・リストで埋まっていた。
慌てたローヴァ・ジャパンは本国に対して生産台数の増加を申請した。本社 の返事は生産台数の増加は認められないが日本への割当て台数を当初の500台から1500台に引き上げる、というものだった。実にRV8の総生産台数の75%である!
MGBの輸入が一時中断し、BLに対して日本レイランドがMGBの日本向 け輸出の再開を依頼した時にBLの首脳は言ったという。
「日本人はクレイジーだ。TR7という新しい車があるのに、なぜあんな古 い車を欲しがるのだ?」
日本側は答えたという「そうだ、日本人はクレイジーだ。だからMGBを買 うのだ!」
確かに日本人はMGに対してクレイジーなのだろう。ひょっとしたら英国人 以上に。因みに「CRAZY」には「夢中になっている」という意味もある。
1994年1月13日、最初の日本向けRV8 46台を乗せた輸送船がサ ウザンプトン桟橋を離れた。
それから約2年後の1995年11月22日に、最後のRV8<002233>が カゥレィのラインを離れた。日本仕様のウッドコート・グリーン車だった。
すでに8カ月前の3月7日にはジュネーヴ・ショウにおいて、「MG復活」 の本命、プロジェクト・コードPR3<MGF>が発表になっていた。
RV8は15年前にMGBが握ったままになっていたMGスポーツカーの松 明を、次の世紀を走るMGFに託してその使命を終えたのである。
オクタゴンのエンブレムが、スポーツカーを愛する世界中の人々の心の中に しっかりと脈打っていることを、満天下に証明して。
The birth of "ADDER" APPENDIX
本稿は下記書籍/雑誌等を参考にした
<書籍>
MG THE UNTOLD STORY;DAVID KNOWLES/MOTORBOOKS INTERNATIONAL
MG V8;DAVID KNOWLES/WINDROW&GREENE
MGB THE ILLUSTRATED HISTORY(2nd);WOOD&BURRELL/HAYNES
PROJECT PHOENIX THE BIRTH OF MGF;IAN ADCOCK/BLOOMSBURY
別冊CG MGF;二玄社
世界の自動車18 MG;二玄社
<雑誌>
MG ENTHUSIAST MAGAZINE 1991.8
THOROUGHBRED&CLASSIC CARS 1997.11
CAR GRAPHIC 1991.3
CAR GRAPHIC 1995.7
SUPER CG VOL.21
<その他>
The History of MGB part.0〜8;Corkey.O
著作:神戸MGCC 岡氏
(MGB V8conv. called "Bee-3",Yotsukaido-CHIBA)
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