The birth of "ADDER"
part.3: Phoenix and Adder
マツダMX5(ユーノス・ロードスター)が華麗なデビューを果たした数カ 月後の1989年7月、後のローヴァ・グループ社長ジョン・タワーズの命令による数度のハイ・レベルのミーティングがカンレィで密かに行われた。議題は将来のMGスポーツカーの復活における方策について、であった。
その中でBMH重役デヴィッド・ビショップはヘリテイジ・ミュージアム所 蔵のMGBトゥアラー最終限定車と彼の工場で生産したヘリテイジ・ボディを用いたMGB1号車<TAX192G>を持ち込んだ。
そして彼はもう1台のMGBも共にその場に同席させた。その車はMGエン シュージャストの一人ロジャー・パーカーが所有するトゥアラーだった。
テスト・ロードで12人程度のローヴァのスタッフの前に3台のMGBが並 んだ。そしてロジャーがエンジンを掛けた時、その場の会話がすべてストップしたと言う。
彼がMGBのボンネットを開けた時、集まっていたローヴァの人々がそこに 目にしたのはEFIを装備したローヴァV8エンジンだったのである。
テストコースでの試乗が終わり、討議に移った。そこでの話題はすでにロー ヴァにある物を用いて、ロジャーのMGBの様な車を生み出すことが可能かどうかだった。
デヴィッド・ビショップはすでに検討済の2000ccDOHC4気筒のM16 エンジンをMGBに搭載する、というものも含めてこのアイディアに確信を抱いていた。
ローヴァ首脳陣の反応は上々だった。灰の中で、いよいよ翼が動き出したの である。
MX5の大成功に刺激され、ローヴァ首脳陣はMGスポーツカー復活を真剣 に考えるようになっていた。
しかし問題が一つあった。開発費用である。
1989年9月18日に行われた会議の席上ローヴァ・グループ会長グラハ ム・デイの「4000万ポンドでできるなら、やってもいいんだが」という発言を受けて、コンセプト・デザイン部門の長であるリチャード・ハンブリンは
具体的な方策を探り始めた。
4000万ポンドという費用は通常の1/10で、デイ会長自身は「無理だから 止めよう」というつもりで言ったフシも見られるが、ハンブリンは日産Be−1やパオなどのニッチカーを生み出した日本の高田工業のやり方なども参考にして、ローヴァ・グループ内部の独立機動部隊として「ローヴァ・スペシャル・プロダクツ(RSP)」を1990年3月28日に誕生させた。
RSPはデイ会長の言葉である「4000万ポンド以下でMGスポーツを復 活させる」方策を探すことになった。
そのプロジェクトに与えられたコード・ネームは「PR」。意味するところ は「Phoenix
Route」だった。後のMGFである。
一方ロジャー・パーカーのMGBトゥアラーV8コンバージョンに刺激され た「MGBアップ・デイト計画」もまた動き始めていた。パーカーの車に強い印象を受けたリチャード・ハンブリンのコンセプト・デザイン部門もまたこのアイディアを先に進めるプランに取りかかっていた。
1990年3月〜5月にかけてBMHが制作したMGB V8がローヴァの ゲイドン・テスト場に持ち込まれた。デヴィッド・ビショップを始めとしたスタッフがドライヴした結論としては十分有望だったものの、BMH自身が生産するには色々な問題があった。
またフェニックス計画も動き出しており、BMHが作るレトロなMGとの関 係も問題だった。
1990年3月にRSPは正式にフェニックス計画の初期検証と共に「アッ プ・デイト版MGB」の想像図を提出した。結果として、この計画には単純なMGBの再生以上の物が求められることになると共に正式のコードネームが与えられた。
その開発コードネームは「アダー(ADDER)」。イギリスにいる唯一の毒蛇 の名前である。
その由来は今更言うまでもない事だろう。
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